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第八百五十五話 恋の揺れ戻し [恋愛譚]

「ねぇ、わたしと前カノとどっちが性格いい?」

 アイスティーのグラスに差し込まれたストローから唇を離してから、メグはいきなり聞いてきた。こういう不意打ちが得意なのだが、たいていは深い意味はなく、思いつきで言っているだけだ。

「なんだよ、いきなり。そんなの比べられないよ」

 どっちが美人なのかではなく、性格を聞いてくるとことがメグらしい。メグは自他ともに認める美人だから、俺の前カノが自分よりきれいな女であるはずがないと思っているのだ。そしてそれはおおむね当たっていた。

「でも、なんかあったから別れたんでしょ?」

「いや、別に何かがあったわけでは……」

「ふぅん。ま、いっか」

 メグとつきあいはじめて半年になる。二年前にヒカリと別れてから、しばらくはもう女の子とあつきあわないと思っていたのだけれども、新しくいきつけとなったバー駱駝屋で出会ったのが一年前。しばらく様子を見ていたが、年末に駱駝屋のクリスマスパーティがあって、その盛り上がりに乗じてつい告ってしまったのだ。メグも俺のことが気になっていたようで、俺たちはいともすんなりとカップルになった。メグは超が付くほどの美人ではないのだが、どこか男が引き寄せられるものを持っていた。

 小悪魔。そう、最近流行りの言葉で言うとそんな感じ。見た目はそれほどでもないのだけれども、男の心に揺さぶりをかけるような言動があり、なんとなくそういう雰囲気が外見にも影響しているように思えた。決して派手ではないがモノトーンを基調にしたお洒落が好みのようで、そこに一点だけ黄や赤を入れるようなセンスの持ち主で、会話の中でも女性らしいやんわりした口調なのに、どこか人を試すような台詞が散りばめられたりするのだ。

「ねぇ、一年過ぎたら反省会しましょうよ」

「反省会?」

 また不可解なことを言い出した。

「なんの反省会をするの?」

「わたしたちふたりのに決まってるじゃない」

「俺たちの反省会?」

「そうよ。恋人反省会。それでまた一年つきあうかどうかをお互いに考えるの、どう?」

「なんだよそれ。なんか言いたいことがあるんだったら、いま言えよ。イマでしょ!」

「別に。いまは何もないわ」

「ならなんで?」

「そういうこともアリかなって。だって馴れ合いな恋人ってなんかやじゃない。わたしね、思うのよ。恋人にしろ夫婦にしろ、互いに少しくらい緊張感があるほうがいいって」

「緊張感って……それ、ストレスじゃね?」

「ストレスって思うのならやめたほうがいいわね」

「じゃ、やめようよ」

「いや、だからね、ストレスになるようなことじゃなくって、少しだけ、塩加減くらいの緊張感、あっていいと思うけどなー」

「塩加減ねぇ」

 空になったグラスの氷をストローで弄びながらメグの顔を見ると、可愛い顔がにまにま笑っていた。こういう突飛な発想が面白いし好ましくも思うのだけれども、ときには面倒くさく感じることだってある。俺は無意識に喫茶店のテーブルに並べられたふたつの小さな容器に指を伸ばしていた。塩が入った白い容器と胡椒が入った黒い容器。どちらが欲しいかって言われても、そのときどきで違う。塩味が足りなければ白い方、胡椒が足りなければ黒い方。そのどっちかを選べなんて言われるのはナンセンスだ。だが、恋人はスパイスとは違う。両方を上手に使い分けるなんて芸当は、俺にはできそうにない。

 別にメグを前カノと比べようなんて考えたこともないのに、メグが聞いてくるからつい比較してしまう。小悪魔なメグに比べると、ヒカルはおっとりしていてやわらかい女性だった。物足りなく思うこともあったが、おおむね安心できる、一緒にいて和める女性だったといまになって思う。

 なんで別れてしまったのかな。答えははっきりしている。何が悪かったわけでもなく、俺自身から遠ざかったのだ。彼女の影響なしに自分自身の人生を考えたいと思ったから。学校を出て間もない頃の俺はなにかしら焦っていて、愛だの恋だの、そんなことに時間を咲いている場合ではないと思っていた。まして結婚がちらほらするような関係は目障りだと考えていたのだ。二年過ぎたいまはなぜあんなに焦っていたのかなと不思議に思うくらいに。

 実はときどきはヒカルのことを思い出す。思い出す度にメグに悪いなと思いながら。だけど、喧嘩別れしたわけでもない前カノのことが気になるのは当然じゃないかと自分で言い訳する。ヒカルにいま彼氏がいて、幸せにしているのなら何もいうことはない。でももし、そうじゃないとしたら……もしいま、ヒカルがもう一度一緒にいたいなんて言ってきたらお前はどうする? 自問自答しながらさまざまな妄想が膨らみはじめる。

 世の中のプレイボーイと呼ばれる男はいったいどんな性格をしてるのだろう。俺にはとても想像つかないな。

「キミィ、いまどっか行ってたでしょ」

「へ? なにが?」

「ぼんやりして、前カノのことでも思い出してた?」

 女の洞察力は案外恐い。

「まさか。ちょっと、夕べ寝不足だったから……」

 ヘラヘラと下手な笑いでどこまで誤魔化せているのか。メグが笑いながら額のあたりに意識を集中して俺の顔を見ている。

                                了


第八百五十三話 嫉妬 [恋愛譚]

 見慣れたはずのデスクの向こう側がいやに遠いような気がした。デスクの向こうで門田の背中が見える。その背中はなぜだか俺を拒否しているような気持ちにさせた。職場の先輩である門田はデスクの後ろにあるファイルロッカーで何か探し物をしていたのだが、目的のファイルを手にとってデスクに戻った。しばらく黙っていたのだが、おおむね仕事が終わりかけた頃に、ぼそりと話しかけてきた。

「なぁ、ミッキー。お前取引先の女性とあまり親しくなりすぎない方がいいぞ」

 ミッキーというのは俺のことだ。三木という俺の苗字をみんなそんな風に呼ぶのだ。営業主任である門田が取引先との人間関係に注意を払うことはよくわかる。だが、若い者同士で恋愛をするのは止せというのはなんだか理不尽な気がした。それに門田が誰のことを言ってるのかも俺にはよくわかっていた。

 俺がいま付き合いっはじめている静子とは確かに業務の打合せで出会った。一年前、俺が担当になる前は、門田が担当だった。静子の職場に出向くようになって最初の半年くらいは、ときどきオフィスの中で見かける彼女を遠目に見て好ましく思っていた。やがて静子が受け持つ商品を俺が扱うようになって、必然、静子と話をするようになった。聞けば門田とは結構親しくしていたようで、なんどか食事をしたこともあるそうだ。そのうち俺と静子の距離は縮まり、仕事以外でも食事に行ったり、お酒を飲んだりするような仲になった。その頃の俺は以前付き合っていた彼女と別れて二年も経っており、もう二度と恋人なんていらないと思っていたのだが、静子には次第に惹かれるようになっていった。これほどの美人に彼氏がいないはずはないと思っていたのだが、どうも男の気配がしないのだ。静子は他の取引業者とも気さくによく喋っているようだったが、いずれも仕事先として対応しているだけで、特別な関係にある男は一人もいないに違いないと考えた。

 それでも俺は何度めかのデートのときに恐る恐る訊いた。静子さん、彼氏とかいるんでしょ? うふふ。どうしてそんなこと訊くの? だって美人だから。美人だって? わたしが? もしわたしが美人だとしても、だからといって誰かとお付き合いしてるとは限らないわ。あれ? じゃぁ、いまはフリーなの? あら、そんなにさみしそうに見える? ぬらぬらとはぐらかされそうになりながらも、ようやく彼氏がいないことを白状させた。ついでに俺もフリーであることを告げ、つまりこういう確認こそが互いにお付き合いの開始を意識させる合図になるのだ。

 二度ほど食事に誘い、その後で門田もよく姿を現す俺たちがいきつけにしている店に同伴でやって来るのだから、何かしら俺たちがつるんでいることは見え見えだったと思うが、別に他の連中に知られてまずいという理由が俺にはなかった。だが、門田は仕事の取引先同士が恋仲になどなって欲しくないと言うのだ。門田は俺の先輩だ。だから仕事の上では彼の言うことがルールだ。そう考えた俺は素直にわかった、と答えた。俺は先輩である門田にとっての友人でもあり続けたかったから。

 それからひと月ほどの間に、俺と静子はついに正式に付き合いはじめる形に収まったのだが、ふたりで門田が来る店に行くことはなかった。俺は門田の言いつけを守りたかったからだし、なぜだか静子も俺たちのいきつけであり門田が来そうな店に行こうとは言い出さなかったのだ。

「静子、実はね、門田さんに妙な釘を刺されたことがあるんだよ」

 あるとき俺はあの日のことを思い出して何気なく静子に話した。

アイドルグループのルールじゃあるまいし、業務恋愛禁止だなんて、ちょっと変だよね」

 俺がそう言うと、それまで屈託なく笑っていた静子の顔がにわかに翳った。俺はすぐには何が起きているのかわからなかったが、静子が泣き出すのを見て、ただ事ではないなと思った。

「どうしたんだ? なにか悪いことを言ったかな?」そう言うと、しばらく間をおいてから答えがあった。

「言えなかったの、どうしても。ミッキーに嫌われたくなかったから」

「え? なんで俺が」

「あのね、わたしカドさんと付き会ってたことがあるの」

 うかつだった。そんなこと、考えてみればすぐわかることなのに。俺と静子と門田さんは、トライアングルだったのだ。

「ううん。ミッキーと食事に行くようになった時には、もう離れてたの。でもね、彼の気持ちはそうではなかったみたいで……だからミッキーに言えなかった。黙ってたこと……許す?」

 許すもなにも、過去の話だ。そこは俺には関係ない。俺と静子の関係が、いまうまくいってるならそれでいいと思う。それより、これから門田とどんな顔をして会えばいいんだろう。何かと親切で俺の悩みにも親身だった年上の門田とは明日も会社で顔を合わす。あんなに仲良くしていた先輩なのに、いまはその顔が、どうしても思い出せなかった。

                                了


第五百九十二話 夜顔 [恋愛譚]

 夕顔とも呼ばれるその花は、夜ごと白い花を開き、美しさを人に披露する。

しかし優しげな花だと思って手を出すと、その鶴には棘があって人を傷つけ

る。

 毎夜美しく着飾ってお店に出る夕子は、自分はまさに夜顔のような女だと

思う。自分で言うのもなんだが、色白で白粉のりのいい肌は密かな自慢だし、

夜ごとやってくる男たちは、みんな私の器量を拝みに来るものだと自負して

いるのだ。今日もまた私目当てにやってきた男たちは、何かにつけていい寄

ってくる。

「なぁ、夕ちゃん。今日はもう店じまいにしてはどうだい? 俺が旨い寿司

屋に連れてってやるからさ」

「あら、私を連れ出すと、それはそれは高くつくわよ」

「またぁ、そんな意地の悪い」

「うふふ。今日はまだ、店じまいするわけにはいかないわ。お店の払いのため

には、もう少し働かないと」

 ようやくその客が諦めて帰ったと思えば、また別の客が言い寄ってくる。

「なぁ、ママ。そろそろデートしようよ」

 こいつはまた直球を投げてくる。こういう男には、直球で返すに限る。

「なぁに。なんで私がお客さんとデートしなきゃぁなんないの? あなただけ

特別名ことしちゃったら、ほかのお客さんに申し訳ないわ」

「あれぇ? そんな気を遣わなきゃ行けない客が、俺のほかにいるのかい?」

「よく言うわ。あなた以外はみんな気を遣わなきゃいけないいいお客様ばかり

なのよ」

 それでもうだうだ言うこの客を適当にあしらって酔わしてしまう。酔ってし

まえば、タクシーを呼んで差し上げて送り出す。

 毎晩毎晩、こんな調子でお酒を売りつけてはいい気持ちになってもらうのが

私の仕事。夕顔だなんて、言葉は美しいけれども、実際はとんでもなく重労働。

それに・・・・・・まだ若い頃だったけど、一度だけ酔った男に言い寄られて身を許

してしまったという苦い経験がある。その客は決して悪い男ではなかった。む

しろいい男で、私が水商売じゃなければ、本気で惚れていたかもしれない。そ

ういう気持ちがあったからこそ、部屋に引き入れてしまったのだ。男は酔って

いたので、結局何もしないうちに眠ってしまい、翌朝は夕子が先に起きて朝食

を食べてもらって早々に送り出した。その後もいい関係を求められたが、いつ

しか転勤でいなくなってしまった。

 あれでよかったのだと、いまになって思う。もし、あの人とその後も続くよ

うなことになっていたら、夜顔としてのいまの私はいなかっただろうと思うか

ら。夜顔だなんて、人に言うのは本当に恥ずかしい。夜顔っていう言葉は美し

いけれども、私が自分のことを夜顔だという本当の訳は・・・・・・人に見せられな

い夜の顔があるからなのだ。

 深夜三時に帰宅した夕子は、シャワーを浴びて化粧落としながら思う。今

日はよく働いたし、その分飲んでしまった。こんな生活、いつまで続けられる

のかしら。髪を乾かして、ネグリジェに着替え、一人ベッドに入ってからの夕

子の姿は、誰にも見せられないと夕子は自覚している。寝入りばなは静かだっ

た寝息は、やがて大きな鼾に変わり、まるで機械工場みたいな音に変わる。夕

子は自覚していた。ひどい鼾をかく自分を。酔った夜にはとんでもない騒音を

吐き出していることを。でも、自分の寝室には誰もいないのだから、そんなこ

とは気にしない。

 ぐぉー、ぐがががが、すぴー。ぐぉーぉー、ぐがががが、すぴー。

 いささか蓄膿気味の夕子はぱかっと口を開けたまま大きな鼾をうなりながら

今夜も心地よい眠りについているのだった。

                     了

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第五百七十三話 愛犬 [恋愛譚]

 年雄は笑うと垂れ目がちな目尻がいっそう下がって、優しさが満面に現れる

のだが、いったん仕事場に入ると切れ者の鋭い眼差しが相手の信頼感を勝ち

取るようなタイプの男だ。ダークカラービジネススーツがよく似合い、社内の

女子の間でもイケメン社員として人気者だった。社内でモテるからといって、チ

ャラチャラするようなこともなく、誰かと付き合っているという噂もなかったのだ

が、実は裏では結構派手な交際をしていたようだ。

 そんな彼とつきあいはじめて一年になるが、たった一年の間に、何度浮気

されたことか。もっとも私たちは結婚しているわけではないので、彼が誰と付

き合おうが、法的に問題があるわけではないのだが。それでも恋人が他の

誰かとも付き合っていることがわかると、腹が立つ。結婚はしてないとはい

え、私以外の相手は、いわゆる本妻に対する愛人と同じだ。その証拠に、

私が浮気を知って彼を責めると、その度に彼は私に詫びてはその浮気相

である”愛人”から手を引くというのがこれまでの経緯だった。

 だけど、一年の間に五回も六回も同じような事が起きると、こちらもほと

ほと嫌になってくる。私の精神状態が不安定になるのも仕方のないことだ

と思うのだがどうだろう。つい先月も彼に頭を下げられて、新たな愛人との

別れを約束させたばかりだというのに、今月に入ってまた新たな疑惑が発

覚した。彼の頭の中は、いったいどうなっているのだろうか。

 今月に入ってからは彼のマンションに行ったことがなかったのだが、その

僅かな期間なのに、いつの間にか、新たな愛人と住んでいるという情報を

会社の同僚から得た私は、現場を捕らえてやろうと思って、抜き打ちで彼

のマンションを訪れた。私は彼の部屋のキーを持っている。だから、いつ

行ってもいいのだ。オートロックの玄関を通り、エレベーターに乗って彼の

部屋へと向かう。いきなりドアを開けてやろうかと思ったが、こちらもちょっ

とビビってしまい、チャイムを鳴らす。

 ピーンポーン。

 しばらくしてドアが開く。なんだよ、いきなり。どうした? 何かあったのか?

何かあったのかじゃないわよ。あなたの部屋を抜き打ち検査に来たのよ。抜

き打ち検査って、なんの? 浮気に決まってるじゃない。浮気? あーっはっ

は。お前も心配性だな、もう俺はそんなことはしないよ。嘘つき! 昨日、K子

から聞いたのよ。新しい愛人がもう住んでるって。愛人? ばっかばっかしい。

そんなのいるわけないじゃない。まぁ、入れよ。

 私が玄関に入ると、奥の方で声がした。

「ワン!」

 私はあっと声を上げた。ほらぁ、やっぱりいるんじゃない、愛人が。何言っ

てるんだ。あれは・・・・・・彼が言いかけると奥から茶色い小さな塊が走り出

てきて私に飛びついた。何よ、これ! こいつはバイなの? バイってなんだ

よぅ。だってこいつはあなたの愛人でしょ? なのに私にキスしようとしている

わ。お前、本気で言ってるのか? これは愛人じゃなくって、愛犬だろ? お

前、どうかしてるぜ! 

 確かに私はどうかしてる。もとより犬好きの私なのに、こと彼が可愛がって

いると知ればは止めがきかなくなる。

「どうでもいいから、もう、早く手を切って! この新しい愛人と!」

 私はそう言い放って部屋を後にした。

                                   了


第四百六十三話 黄昏時の恋。 [恋愛譚]

 「秋ちゃん、ちょっと待って。」

 秋生の足は早い。秋生と並んで歩いていた春代は、そのうち息が切れて遅れ

がちになってしまった。もともと体力に自身がない春代は、最近、頓に息が続か

ない。こんなことでは、来月、皆で出かけるハイキングへの参加もおぼつかない。

 歩くことが大好きな二人のデートは、もっぱら近所のお散歩だ。たまには喫茶

店に入ったりもするが、安上がりだし健康的でなかなかいい。何より、二人は同

じ住所に住んでいるから、わざわざ何処かで待ち合わせしなくても、どちらかが

部屋の扉をノックしさえすれば、いつだって散歩に出かけられるのだ。

 住まいからの行き道は何通りもあって、今日は川沿いの公園に向かっていた。

この地域で最も大きなこの川は、街全体に飲料水を供給する役割を持った川な

のだが、昔はすごく汚れていた。こんな川の水を飲んでいるのか、とがっかりさ

せられるくらいに汚かったのだが、市が率先して環境の浄化を始めてからは次

第に美しさを取り戻してきた。今では河川敷も整備されて、市民の公園として憩

いの空間を提供している。西海岸のゴールデンゲイトブリッジとまではいかない

けれども、恋人たちの恰好のデートスポットにさえなっているのだ。

 私たちも、週に一度はこの場所でデートする。公園のそこここに設けられた花

壇には季節毎に美しい花が咲き乱れるのも好ましいが、ぼんやり二人でベンチ

に腰掛けて、入道雲を身近に感じる夏もいいし、厚手のコートを着ていても凍え

そうになる真冬に、二人でマフラーを分け合うなんて、若いカップルの真似をし

てみるのも楽しみだった。

「春ちゃん、大丈夫?ごめんごめん、僕がちょっと調子にのって早く歩き過ぎた

ね。なんだか今日は調子がいいので、ついつい頑張ってしまったみたいだ。」

「ふぅー、ま、許す。元気だってのはいいことだから。」

「よかった。」

「でも、おかげで早く付いたわね、今日は。さぁ、どこかに腰掛けて休みましょ。」

特にお弁当とかお菓子を持ってきているわけではないが、春代はいつペットボ

トルの水は持ち歩いている。販売機で買うジュースなどよりも、水がいちばん。

常に体に水を供給してやるっていうのは、何よりも重要なのだ。美容にとっても、

健康にとっても。それに、薬を飲んだりするのにも水が必要だし。

 ペットボトルの蓋を回して一口飲んでから、春代は秋生にボトルを差し出す。

「飲まない?」

「あ、ありがとう、いただくよ。」

冷えていない、生ぬるいくらいの水だけど、少し歩いて汗ばんだくらいの体に

はそれさえもひんやりして心地いい。若い頃はキーンと冷えた水分を欲しがっ

けれど、冷たすぎる飲み物は体を冷やすから、本当はよくない。常温くらい

の水が体には丁度いいのだと、どこかの医者が言ってたっけ。

 この河川敷の公園は、二人のようベンチでくつろぐこともできるが、全体に芝

生が養生されていて、地面に直接寝っ転がったり、レジャーシートを敷いてお

弁当を広げるカップルも多い。そんな若い人たちの様子を眺めながら、春代

たちも、若者の一員になったような気分を楽しむのだ。

「なぁ、僕たち、百歳になるまで一緒にいようなぁ。」

「あらぁ、急になあに、ロマンチストだったっけ?」

「ほら、そんな歌があったじゃない?百歳になるまで~かなんか言う歌。」

「そう?そんなのあったっけ?二人合わせて二百歳とか?」

「ばぁか。僕の方が十も年上なんだから、それだと君が九十五歳で僕が百五歳

ってことになるだろ?そんなの不公平だし、そんなに生きられないよ、僕。」

「あ!ああーダメー先に死んじゃ。死ぬときは一緒!一緒がいいわ。」

「ダメだなぁ。百歳になるまで一緒にいようって話をしてるのに、なんで一緒に

死ぬ話になるんだい?縁起でもない。」

「ごめんごめん。つい、そんな話になっちゃっただけよぅ。」

「ま、仕方ないな、僕たちはもう年なんだからね、ハッハッハ・・・ゴホッゴホッ!

ゴホッ!ゲボゲボ!」

「だ、大丈夫!どうしたの?」

「グオホッツぐぉグオッホ!」

「しっかり!背中さするね!」

 春代はゆっくり秋生の広い背中をさする。肩を揺らして咳き込んでいた秋生

も徐々に落ち着いて、平常の呼吸に戻ってきた。

「はぁはぁ、少し歩いた後だったのに、大きく笑っちゃったから、なんか喉が

かしくなったみたい。やっぱり、季節の変わり目は喘息がでるなぁ。」

「そうね、気をつけなくっちゃ。喘息で息ができなくなっちゃうこともあるん

でしょう?」

「うん、喘息は侮れない。息が詰まって、若い人でも死んでいった人を、

僕は何人も知っている。」

 ああ、嫌だ嫌だ。病気なんていやだ。病気も嫌だが、加齢も嫌だ。だけど嫌

だと言ってもやってくるのが老いだものね。それからしばらく自然の風を楽し

んだ私たちは、またゆっくり歩いて住まいに取って返し、二人して秋生の部

に戻って休憩した後、静かにエッチした。エッチと言っても、私たちのは、

静かで可愛いものだ。若い頃のようなことはない。少しキスをしてから、お

互いに服を脱がせ合い、陰部を密着させて抱き合うのがメイン。秋生があ

まり元気じゃないとき等は、挿入しないことさえある。それでも愛し合ってる

二人にとっては、裸の皮膚を合わせ合うことが何よりも大切なことなのだ。

夕食の時間が来るまで二人でベッドで過ごし、薄暗くなるまで仮眠する。

そして頃合いを見計らって夕食をしに食堂へ向かうのだ。

 それから一週間ほど過ぎたある日、太陽がだいぶん高くなった時刻に、いつ

ものようにお散歩に出かけようとって私は秋生の部屋のドアをノックした。だ

が、返事がない。胸騒ぎがした。管理人さんに部屋の鍵を開けてもらう。秋生

はベッドの中にいた。だが、もう、呼吸はしていなかった。口の周りが涎で汚れ

ていた。発作だ。明け方、喘息の発作に襲われたのだ。遺体はまだ少し温か

かった。秋生、享年八十九歳。春代は八十四歳。老人ホームに暮らす恋人た

ちの晩春の出来事。

                               了


第四百五十五話 挫折の天使、失恋の神様。 [恋愛譚]

 挫折の天使って、聞いたことあるかい?知らないだろうな。だって俺も初め

て聞いたから。誰に聞いたかって・・・なんだっけな。あ、そうそう、テレビで作

家か何かが喋ってた。そう、あれは何かの映画の前説だったと思うな。で、

挫折の神様ってどういう意味かって?気になるだろ?

 俺はてっきり挫折した時に助けてくれる天使のことだと思ったんだ。ところが

違うんだって。むしろ、挫折させる天使。誰かの人生がうまく運んでいるのに、

絶妙のタイミングでつまづかせる。つまづくことによって、その人は気づき、反

省をし、その部分を強化してさらに強くなって次の一歩を踏み出すそうだ。

 おいおい、そういうのってあり?俺はさ、そんな余計なことしていらないなぁ。

今だって十分につまづいてきたし、これ以上挫折なんてしたら、もう立ち直れ

なくなるかもしれないし。何につまづいてるのかって?聞く?そんなこと。それ

って俺の傷口に指突っ込んでグリグリやるようなもんだぜ。

 ま、俺はさ、いろいろ挫折してきたけどね。仕事でつまずくなんてあったりま

えじゃん。そんなこと気にしないね。第一、仕事ではそんなに高い目標を持っ

ていないからね。もう、なんていうか、このくらい。ほら、くるぶしのところくらい

かな?このくらいのハードルなのに、それにつまづいちまう。あ、いや、こんな

低いからこそつまづくのかもな。だってほら、草原の草を右と左で結んでつくる

トラップ。あれってつまづくでしょ?だけど、それくらいのでコケたところでさ、ち

ょいとすりむく程度で、痛くもなんともないさ。すぐにまた歩き出せるし。あと、

そうだなぁ、家族?両親とは良く喧嘩するよ。ウルサイからね、あいつら。人の

ことをなんと思ってるのか、ああしろこうしろ、これはいけない、あれもいけない。

俺、もういい大人だよ?親が小さい子供を叱ったりするの、あれって、本当は

あまりよくないらしいね。だってほら、子供だって一人の人間だぜ。それを、その

人格を無視して、親の思い通りにコントロールしようなんて間違ってる。俺の場

合、こんなおっさん捕まえてああだこうだって。こりゃあないよな。これはつまづ

くよ、親の言葉に。でもな、そんなもの右から左さ。右から左へ~受け流す~

てもんだな。

 挫折っていうか、つまづきで、俺が痛いぜって思うのはな・・・ウヒィー・・・言っ

てしまうとこだった。くっくっく・・・そう簡単には教えられないぜ。俺にとってはこ

れは見すごせない一大事なことなんだからな。何かって?聞きたいの?それ

はな・・・ウィーっヒッヒ!言ってしまいそうになった!クックックッ!え?何?早

く言えと?わかった。教えてやろう。それはな・・・。

 女だ。いい女がいるのよ、あっちにもこっちにも。そんで、そういうメンタとよろ

しくやってる兄ちゃんがいるわけじゃない?そいつがどんな面してると思う?ブッ

ブッブ男!俺に輪をかけたようなブサイク!なのに、いい姉ちゃんといるわけよ。

そんなんだったら、俺にだってお姉ちゃん来てくれてもいいはずだろ?そう思う

から、俺は目に入ったお姉ちゃんを誘うわけよ。そしたらな、心良く返事してくる

どころか、笑いやがんの。目を釣り上げて「ゲッ!」なんて言って走って行く女も

いたな。ひどい時には完全無視。目の前に俺がいるのに、誰もいないかのよう

に振舞って無効に逃げていくのな。ひどくない?

 毎日毎日、こんなことの繰り返し。俺は他のどんなことにも挫折感なんて感じ

ないけどね、こと女に関してはもう~挫折の連続なんだよ。だからね、挫折の

天使さんなんて姉ちゃんに、これ以上掻き回されたくないわけ。むしろほら、こ

ういう俺って、神様だと思わね?そ、向こうが挫折の神様っていうのならね、俺

はもうこれは神様よ。失恋の神様!

 挫折の天使vs失恋の神様・・・どっちが強いと思う?しらんって?そんな冷た

い・・・そりゃぁ神様が強いだろうて、そう言ってよ。ま、とにかく千人切りじゃない

がな、こちとら千人振られじゃない?これはもう、神様だよ。振られの神様・・・

やそりゃ格好悪いから、失恋の神様。

 なるほど、そうか。閃いたよ!俺、これで商売できるかもな。

失恋の悩み、萬承ります、by失恋の神様」

これってどーよ。イーんじゃなーい?いかにも助けてくれそうだろ?よしよし、

おれ、これで明日からメシ食ってこ。「よろず引き受けます、 by失恋の神様。」

 まさかこの様子を、挫折の天使が空から見ているなんて、俺はこれっぽっち

も考えてみなかった。俺は、三歩歩くか歩かないかでつまづいてしまった。

                             了


第四百三十話 愛する彫像。 [恋愛譚]

 建物の入口周りには、偶然なのか意図的なのか、がらーんとして何もない。

立派な建物のエントランスらしい広々とした空間だけに、何もない、誰もいない

となると、ひと際寂しく感じられる。声を上げると自分の声だけがわぁんと響い

て一層他には誰もいないんだという思いを募らせる。

 僕がこのビルに足を運ぶのは、僕にとってとても大事なものがあるからだ。

それはビルの三階にある。ここはオフィスビルなのだが、三階には医療者が

数件入っている。内科、歯科眼科、形成外科。僕が行くのは歯科だ。歯科

の扉を開くと受付があり、この受付窓口の向こうに置かれている美しい彫像

に会いに来るのが僕の日課なのだ。

 彫像はほっそり小柄な身体が歯科らしい白衣で包まれている。最も目を惹

くのは限りなく八頭身に近いのではないかと思える小ぶりな頭部だ。もちろん

僕もこの頭というか顔を見に来るのだ。日本人にしてはいささか深い彫りの顔

立ちで、中東辺りとのハーフではないかと思わせるが、そうではないらしい。生

粋の日本人だ。この美しい顔立ちに浮かぶ軽い微笑みが一層美しさを引き立

たせている。彫像といえどもまるで生きているような愛らしい姿・・・いや、実際

に生きているのだ。この堅い表面の下には明らかに暖かい血が流れているは

ずだ。

 そう、彫像はこの人だけではない。世界中あらゆるところに存在している。この

歯科だって室内に入ればいくつもの彫像があるはずだ。僕には用事がないので

中には入ったことはないが。僕が会いたいのは、この美しい彫像だけだ。かつて

僕の恋人だった彫像。

 どうして僕の恋人が彫像になってしまったのか。それはよくわからない。ひとつ

言えるのは、彫像となったのは彼女だけではないということ。いや、僕以外、世界

中のすべての人間が彫像になってしまったらしいということ。それに、この世界に

は夜がなくなってしまったらしいことだ。

 ある朝、突然目の前の光が爆発した。爆発したのかどうかは分からないが、そう

いう表現がふさわしい。光が何千倍もの明るさになって、眼がくらんだ。気がついた

とき、僕は目がつぶれてしまったのかと思った。が、しばらくすると普段と変わらぬ

世界に戻っていることに気がついた。ただ動くものは何もなく、物音ひとつしない。

自転車に乗った人はそのままの形で固まっている。歩いている人も片足を上げた

ままだったりする。不思議なことに、空を飛ぶ鳥も器用に空中に浮いたまま動か

ないのだ。僕には何が起きたのかさっぱり分からないが、とにかく僕以外のすべ

てが彫像のように動かなくなってしまったということだけなのだ。

 心配になった僕は携帯電話をかけようとしたが、電話はまったく薬に立たなか

った。恋人の事がとても心配になって彼女が勤めている歯科病院に足を運んで

見たのが、この彫像行脚の第一回目だった。彼女はいつもと変わらぬ美しさで

微笑み、ただ彫像のように動かなかった。死んだのか?いやどう見ても死んで

いるようには思えない。何らかの理由で固形化してしまっただけで、必ずいつか

は元通りに動き始めるはずだ。そう自分に言い聞かせながら、僕は親がいるは

ずの家に向かった。結果を言えば、両親も兄弟も、それぞれあの時間に居るべ

き場所で彫像になっていた。それから何日過ぎても同じ場所で同じ形で立ち続

けている。

 あの日以来、まだ一度も夜が来ないので、正確な事は分からないが、概ね一

年くらいが過ぎたのではないかと思えるのだが、最近、ある恐ろしい事を考え始

めた。あの日、僕以外のすべてが固まってしまった。少なくとも僕にはそう見えた。

だが、もしかすると、世界が変化したのではなく、僕だけが変わってしまったので

はないだろうか。

 つまり、周りが固まったのではなく、周りが固まったように感じられるほど僕の

動きが速くなったのではないかと。あるいは、時間が停まってしまっているので

はないかと。あの光が爆発したのは、僕だけに起きたことで、僕の周りの時間が

停まってしまったのだとすれば、皆が固まっているのも、鳥が宙に浮いたままな

のも、夜が来ないのも理屈が合う。だが、何故そうなったのかはどう考えても分

からない。いつか元通りに戻ることを信じることしか、僕には出来ない。

 そしてこの先二年経とうが十年経とうが、いつまでも美しいままでいる恋人の

ところへ足を運ぶ。今の僕にはそれしか出来る事がない。

                                 了

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第四〇二話 愛しのどーもメーカー。 [恋愛譚]

 「それでは、今日はこの辺で、懇親会に突入しますか。」

司会進行約の山本氏はこの会のまとめ役で、上手に司会進行をするが、お酒

の席になると、一歩退いて別の会員にバトンタッチする。山本は酒が飲めない

し、なによりそういうソフトな席を盛り上げるのは苦手なのだ。

 「じゃぁ、ここから先は、浦野さんにお願いしますね、いつも通りだけど・・・。」

浦野と呼ばれた男は、この会の古株で、もうすっかり宴会係として定着してし

まっている。浦野は頭髪も少なく、一見、かなりのおじさんに見えるのだが、

実は結構若く、まだ三十を少し越えたくらいだ。頭のお陰で、いつも十数歳は

年上にみられる。実年齢よりも上にみられることは、ビジネス上は決して悪く

はないのだけれども、プライベイトとなるとあまりいい感じとは思っていない。

なにしろ、チビ、デブ、ハゲという女性にもてない三代要素のうちの二つまで

を抱えてしまっているのだから。浦野はデブではないが、背はあまり高くない

のだ。

 そもそも、この会というのが、「デンパ友の会」と言って、かなりオタッキーな

会。今日だって、軍払下げの無線機の話で盛り上がってしまうくらいマイナー

な趣味を共有する男たちの集まりなのだ。男たちと言ったが、数少ない女性

会員もいる。河野幹子もその数少ない女性会員の一人で、滅多に会合には

出て来ないのだが、今日は珍しく顔を出していた。

 滅多に顔を出さないから、幹子の知り合いはほとんどいない。だから、懇親

会はパスしようかなと思ったのだが、丁度腹も空いていたので、少しだけ参加

してみることにした幹子だった。

 「いやぁ、軍払下げの無線機はよかったなぁ~。」

「ほんとほんと。あれ、今度店に行って触ってきますよ。」

乾杯を済ませた後は、みんなそれぞれに気になる話題について会話を交わし

始めたが、幹子にとって軍払下げの無線機なんて、よくわからない話だ。幹子

は、むしろ最近の無線LANだとか、スマートホンだとか、そういう知識を得たい

からこの会に参加しているのだ。

 そんな様子の幹子に気がついて、浦野はそれとなく別の話題を提示する。

「ところで、今度出たあのWi-Fiって、どうなんでしょうね?ね、河野さんも

そう言うことが知りたいんでしょ?」

「ええ・・・そう・・・ですね。」

いきなり話を振られてドキッとした幹子だったが、反面、この浦野という男に

見透かされているような気がして、別の意味でもドキドキした。

 幹子はもう三十五歳になるが、未だ独身で、今のところ交際相手もいない。

だから、そういう意味でも同好の男性がいるのではないかと思ってこういう会

に参加しているという向きもないではない。だが、こんなお宅の集まりには、

そう都合のいい男性がいるわけではない。第一ほとんどの男性が所帯持ち

なのだ。浦野はどうやら独身らしいが、幹子が興味を持つタイプの男ではな

い。やっぱり、男性だってカッコいい人がいいわよねー。幹子は心の中でそ

う思いながら、浦野の頭を眺めている。

 懇親会は、三〇分もすると、初対面だった会員同士もすっかり和やかな

雰囲気になって盛り上がってくる。それを見計らって、浦野はまたさらに盛り

上げようという趣向を提示する。

 「はい、みなさん、今日はね、あるところからこんな素敵なプレゼントを入手

していますよー。ほら、マイクロフォン型のストラップ可愛いでしょ。残念なが

ら三個しかないので・・・いつも通りジャンケン大会で!」

 他愛のない品物でも、こういう席では盛り上がるものだ。それを見越してこう

いうものを用意する浦野もなかなかのものだ。幹子は思う。

 「こういう男の人って、案外女性に好かれるのかも知れないなぁ。いくら男前

でも、難しい顔をしてるあの人とか、なにかと格好をつけたがる会社のあの男

とか。浦野さんみたいなあっけらかんとして人を楽しませる人って・・・そういえ

ば最近見なくなったなぁ。」

 「じゃぁ、そろそろお開きということで・・・今日は、おひとりさま二千五百円で

仕切りましたぁ~!」

 いやぁ、どーもどーもと言いながら集金して回る浦野の頭を眺めながら、こ

の男を好きになる女性って、やっぱりいい子なんだろうな~。いつの間にか、

浦野の隣に並んでいる自分の姿を想像してしまっている幹子だった。

                               了


第三百八十七話 ウェディング・トラブルー後篇 思い、違い。 [恋愛譚]

  「うぁー!」

機内中に響き渡る叫び声をあげたのは、祐二だった。美紀は機体の音そのものよ

りも祐二の叫び声に驚いてしまった。

「祐二、なによ、その怖がりようは。」

「だ、だって・・・怖いじゃないか。」

「怖いったって、今はちょっと揺れただけでしょ?」

「・・・い、いやぁ、なんかギギギーって、奇妙な音が・・・し、したぜ。」

「もう、祐二ってそんな意気地なしだたっけ?」

「馬鹿っこんなの、誰だって怖いだろう。」

「あら、あたしは平気よ、これくらい。」

「またぁ、そんな強がりを・・・。」

「強がりじゃないって・・・そういえば、あなたあのときだって・・・。」

「なんだよ、あの時って。」

「ほら、いつかエンタテインメントランドでさぁ、なんかお化け屋敷みたいな、

暗闇の中で音を聞かせて驚かせるっていうアミューズメントの時・・・。あなた、

始まる前にさっさと出ていちゃったじゃない、私を置いて。」

「ああ、あれは体調が・・・悪かったんじゃないか。」

「ふふん、そんなの言い訳よ。弱虫なんだわ、祐二ったら。」

「おい、男に弱虫はないだろう。」

「じゃぁ、もし、もしよ、この飛行機が海に落ちたらどうするよ。」

「どうするよって?」

「あなた、ちゃんと私を助けてくれるの?」

「・・・あ、あたりまえじゃないか。結婚したての奥さんを見捨てるわけがない。」

「あら、私ならまず自分が助かろうとするわよ。私はあなたを助けないと思うわ。」

「ええー!そ、そんなぁ。」

「そんなぁって、あなたは私を助けなさいよ。私は自分のことだけで精いっぱい。」

「ひどいなぁ。お互いに助け合うのが夫婦じゃないのか?」

「それは通常の場合でしょ?こんな命が危ない時に、女は弱いんだから、自分の

ことで精いっぱいだわよ!」

「そうか、美紀って、優しい女だと思ってたけど、そんな女だったのか・・・。」

「そんな女って何よ。どういうことよ。こんなの当たり前じゃない!男が女を救

わないでどうするっていうのよ!」

「ちょ、ちょっと、まだ飛行機が落ちると決まったわけじゃぁないんだから!」

「お隣さん、さっきから聞いてると、落ちる落ちるって、やめてくださいよ、縁

起でもない。」

「・・・す、すみません・・・。ほら見ろ、隣に怒られちゃったじゃないか!」

 再び大きく揺れて、今度は天井から酸素マスクが落ちてきた。

「ひゃぁ~!いよいよだめかぁ!?」

「やめてよ、祐二。こんなの、前にもあったわ、私は。非常事態にはこれが出て

くるのよ。」

「やっぱり、機体のどこかが破れたんじゃないのか?さっきの音。」

「そんなことになってたら、放送が入るわよ。」

「だって、前にテレビで見たけど、飛行機の屋根が吹っ飛んでしまうんだぜ。」

「知らないわよ、そんなの。」

 がくん!がくん!がくん!

 「あっあーっ!」

「んもう、いい加減にしてよ、格好悪い。」

「おおー落ちる落ちる!」

「祐二、頭を抱えて下げなさい!」

「ひぃいー、落ちるぅ~!」

 機体は再びガクンと揺れて、次にはドスン!と着地した。無事に成田に戻って

きたのだ。

機内ではあちこちから安堵の声が漏れ、機体は静かに滑走路を動いてやがて

止まった。

美紀が頭をあげると、祐二はまだ頭を抱えて震えていた。

「祐二、止まったわよ。もう、大丈夫よ。」

「・・・・・・・・・。」

祐二は格好悪いのと恥ずかしいのとで、頭をあげることが出来なかった。ズボン

も少し濡れていたのだ。

 空港の通路を歩きながら美紀は言った。

「先が思いやられるかも。私、祐二ってもっと強くて勇敢だと信じていたのに。」

「俺こそ、美紀ってもっと優しくって思いやりがあるって思っていたのに。」

このハネムーン、出直せるかどうかと推し量りながら二人は通路をどこまでも歩

いて行った。

                                了


第三百八十六話 ウェディング・トラブルー前篇 落ちる予感。 [恋愛譚]

 信じられないことだが、機体は大きく揺れてガクンと二階建てくらい落ちた。

体感的にはそんな感じだが、実際にはもっと下降したのかもしれない。まさか、

自分たちがこんな目に遭うとは夢にも思っていなかった二人は、新婚旅行

出発したところだった。

 山村祐二と香山美紀は昨日の午後、都内のチャペルで式を挙げ、二次会三次

会として、同級生や会社の同僚たちからは二度も三度も祝福を受けた。幸

せの真っただ中という気分で夜中の二時くらいにようやく空港近くのホテルに帰っ

て旅に備えた。翌朝七時の便は、二月の閑散期だというのに以外にも混雑してい

て、チェックイン出来たのは出発予定時刻の二十分前になっていた。祐二と美紀は

あたふたと搭乗口に向かい、機内でシートベルトを締めてようやくほっと落ち着くこ

とが出来たのだ。

「あーあ、私たちって、本当になんだかいつもバタバタね。」

「ああ、もう、所帯持ちになったんだから、そろそろ落ち着かないとな。」

「いやぁん、そんな所帯なんて言葉。なんだか急に年寄り臭くなっちゃった。」

「あ、そうか、ごめんごめん。お袋がよく所帯がどうしたとか言ってたから、う

つっちゃったのかな?アハハ。」

「ウフフ。」

 「まもなく当機は離陸致します。ご搭乗のお客様は座席を元の位置に戻して、

シートベルトをしっかりとお閉めください。Ladies & Gentlemen・・・」 

アナウンスが入って、二人が乗った飛行機は離陸態勢に入った。祐二は何度

も飛行機に乗っているのだが、何度乗ってもこの離陸の瞬間というモノは好

きになれない。だいたい、重たい金属の機体を持ったでっかい物体が空を飛ぶ

ということ自体が信じられないのに、最近知った雑学知識によると、飛行機が何

故飛ぶのか、その科学的根拠はいまだに解明されていないというし。そんなモノ

が堂々と飛んでしまっていいのだろうか?実際、陸するときの飛行機ときたら、

棒高跳びをするときのアスリートが思いっきり助走をつけ力を込めて飛ぶよ

うに、長い滑走路をずんずんずんと走り抜け、いざ飛び立つ直前には油の臭い

をぷんぷんさせながら「ふんっ!」といって離陸するように思えるのだ。実際、今

もこの飛行機はぐいんぐいんと滑走路を走り、やっぱり「んしょっ!」と力を入れ

て離陸た。おお、この瞬間が未だに気持ち悪いのだ。足下がしゅんとして、下

腹にぐっと力が入ってしまう。

 飛行機は無事飛び立ち、ほどなく機内サービスが始まった。これからの長い

空の旅に備えてまずは喉をうるおしてくださいと言うやつだ。しかし、早起きした

祐二にも美紀にも眠気が襲ってきて、飲み物よりもひと眠りだとうつらうつらし

めた。その時だった。ぶぅんと機体が大きく揺れた。何事かと思ったが、すぐ

乱気流の仕業であるという機内アナウンスが入った。

 どのくらい眠っていたのだろう。一時間くらいのような気もするが、まだ数分し

立っていないようにも感じる。とにかく、祐二が目覚めたとき、機内の空気が

奇妙に緊張しているのを感じた。それに、機体が奇妙にガタガタと振動している

のだ。

「美紀、おい、起きろ。」

「ん。んー。アハぁ、よく寝た。」

「なぁ、何だか変なんだ。」

「変って何が?お腹でもこわした?」

 ガクン!機体が大きく揺れる。美紀は目をつぶって固まっている。

「ほら。」

「・・・な、なに、これ。」

「わからない。まだアナウンスも入らないし。たぶんまた乱気流だと思う。」

「いやだわ。早く静かにならないかしら。」

「ご搭乗のお客様にお知らせします。先ほど離陸の際に、エンジンに何かのトラ

ブルが発生したようです。しばらく様子を見ていましたが、安全のために当機は

成田に引き返します。」

そうして再び大きく揺れたかと思うと、今度は下降するような重力を感じた。いっ

たいどのくらいの高度にいるのかさっぱり分からないが、それからというもの、機

体は大きく揺れたり、上へ下へと大きな振動を始めたのだ。乗客はみな騒ぎ出し、

機内アテンダントもひきつった顔に笑顔を貼りつかせながら、「大丈夫です、ご安

心ください」と繰り返しながら乗客のシートベルトや座席をチェックし始めた。

 「こ、これって・・・大丈夫なのか?」

「大丈夫じゃないわ、きっと。」

「そんなはずは・・・」

「だって、ほら、あのアテンダント、泣きそうになってるし。この飛行機、落ちるわ。」

ひゅーん!と機体がまた落ちる。機内にはキャーともぎゃーともつかない叫び声が

溢れる。

再び機内アナウンスが入る。

「只今当機は成田に引き返しておりますが、エンジントラブルのため、機体が安

しておりません。みなさま、万が一に備えて、座席のままで腰をかがめて、両

手で頭を抱える姿勢をお取りください。」

そう言い終わると同時に、機体が大きく揺れて、ギリシッ!という奇妙な音が響い

た。

                                     続く。


 

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