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第八百五十七話 嘘つき [文学譚]

 小高い山の裾野を這う細い坂道を下ると、青いフィルターをかけられた天と地が溶け込んでいた。 なにかしら比喩的な異世界が見つかるのではないかという気がして、つい歩に力が入るんを感じた。

 すぐに比較的広い道路に出くわして、鉄を纏った生き物が通り過ぎるのを待ってからそこを横切り、そのすぐ向こうにある抜け穴のような寂れたアーケードをも踏み越えて行くと、ようやく波の音が三半規管をくすぐった。

 遠い彼方から手を伸ばしたうねりが大地にばらまかれた星屑をさらっていく様子を想像していたのだが、四角い灰色の石の向こうはいきなり深緑の淵になっていて、あいにく足を浸すことさえできそうになかった。星屑の代わりに灰色のかけらを持ち去ろうと足掻いている水勢の様子に見飽きた頃、天地の境目あたりにミニチュアァの船舶を発見した。最初は白い小箱が浮いているのかと思ったが、それは大型船舶に違いないと見定めた。流されているように見えたそれは次第に大きさを増し、気がつけばミニチュアァなどではなく鉄の生き物を何台も飲み込む程に大きな船であることがわかった。

 やがてその巨大船舶は灰色の岩に音もなくたどり着き停止した。化石生物が吐く息の臭いと共に、ようやくいくつものギアが軋む音がして、閉じていた下顎が下がって大きな口内を晒す。その中からは思ったとおり飲み込まれていた鉄の生物たちが何匹も吐き出され、晴れて自由の身になった彼らは俄かに眼を覚まして蜘蛛の子のように逃げ出すのだった。

 僕がここまでを読み上げたとき、眠そうな教室に机を並べている生徒の中から声が上がった。

「嘘つき!」

 教師は誰が声を上げたのか見渡したが、声の主は上手に姿を隠していたのでわからないようすだった。ともかく教師は眉間にを寄せ、唇を少し歪めて考える振りをしてから口を開けた。

「誰だか知らないが、嘘つきということはないな。だが……」

 教師は眼鏡を外してハンケチでレンズを拭きながら続けた。

「要は、山道を降りて海岸線に出たら、砂浜ではなく岸壁があって、フェリーが到着したということなんだな? そうだな? 春休みの作文にしてはずいぶん凝った書き方をしたな、田中」

 僕は黙って褒めてもらうのを待っていた。

「だがな、田中。これは恥ずかしいぞ。こうやってレトリカルな文章を書けば褒めてもらえると思ったら大間違いだ。もっと普通にありのままを書いてご覧。そのほうがずっとこともらしくていい作文になるから。君は文学を気取っているのかもしれないが、文学って……途方もなく恥ずかしいことだぞ」

「恥ずかしい! 恥ずかしい!」

 クラスの皆がはやし立てる。

「ぶんぶん文学恥ずかしい」

 その日から僕は皆から”ぶんぶん恥”という渾名を授けられた。

                                    了


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第八百五十六話 海辺飯店公司 [妖精譚]

「んだば、メシ行きましょかな」

 工場奥にある事務所での商談が終わると、陳翁が言った。

「いい処あるあるよ。シーサイドレストランね」

 シーサイドレストランと聞いて、俺はニューヨークのイーストサイドにあったベイエリアカフェを思い出した。イーストリバーに面したテラスで食べたロブスターが美味かった。そうか、この街にもニューヨーク並みにお洒落な店ができたんだなぁ。そう思っただけで口の中にシーフードの香りが広がるようで、思わず唾を飲み込んだ。この街の自慢のスポットよ、ワタシ最近毎日行ってるよ、きょうはワタシご馳走するよ。早く店を紹介したいという意気込み満々の陳翁に急かされるままにタクシーに乗り込んで件の店に向かった。

 海に囲まれた半島にある街であるから、車に乗ればすぐにベイエリアにたどり着く。どんなにお洒落なエリアなんだろうと胸躍らせながら着いたのは、お洒落でもなんでもない下町の外れにある倉庫街の一画。そっか、ロフトを改造した店なんだな。そう思いながら陳翁の後ろを歩く。と、目の前に薄汚れた木造の海の家のようなあばら家が見えた。

「ここね。着いた着いた」

 陳翁は弾むような足取りで建物に入っていく。なんだぁ、これ。ここが……レストランなのか? 入口をくぐると煮物の香りが鼻をついた。ん。こりゃぁなんだ、ナンプラーの臭か? 美味そうというよりは、アジアの屋台に広がっていそうなあの匂い。おいおい、ロブスターはあるのか? オイスターは?

「さ、ここに座るね」

 陳翁はやはり常連であるのは間違いないのだろう。アイヤー、ソイヤー、ナンヤラヤー。店の奥でオーナーらしい男と楽しそうになにかしゃべっている。円卓に戻ってきた陳翁はニコニコしながら言った。

「本日の特製料理、美味そうなのぜんぶ頼んできたね」

 俺がどんより曇った大窓の外を眺めていると、昼間なら眺めがいいよ、ここは海が見えるサイコーのレストランね、と言って嬉しそうに笑う。確かに窓の外はすぐ海のようだが、薄明かりの下でちゃぷちゃぷ音を立てている水面には瓶やらプラスチックやら、いろいろなものが浮いていて、とてもきれいな海とは思えない。そう思って見ていると、なんとなくドブ臭い臭いが漂ってくるように思えた。大丈夫かよ、この店。

 やがて醤油や油で汚れたままのエプロンをつけたウエイターが料理を運んできた。見ると陶器のボールの中にはどす黒い液体が湯気を立てながらなみなみと入って揺れている。

「おおー、これはオーシャンスープだ。美味いよ」

 スープ皿に注がれたその黒いスープを口にしてみたが、生臭い潮の味。まさかこの海の水を温めただけのものでは?

「ここの海のスープは栄養たっぷり!」

 陳翁はあっという間にスープを飲み干してしまった。

 次に運ばれてきたのは大きな深皿の中にやはり黒々としたなにものか。

「これこれ。この店の特製ね」

 言いながら皿にシェアしてくれたのはいいが、魚を煮つけたらしいこの料理もまた不気味な香りを放っていた。この魚はなにかと問うと、”変鯛煮付け”だと答えた。ヘンタイニツケ? 変態に付け? けったいな……。料理は次々と運ばれてくるが、どれもこれも色合いの悪い気色の悪いものばかり。本場で食べる北京料理というのも多かれ少なかれこんな感じだったなぁと記憶の中を探る。蛙だの、田螺だの、魚の腸だの、そんなものばかり煮たり焼いたりして食っているのかなという、それあ北京料理の印象だった。

 俺がどれもこれも食べあぐねていると、ようやく蟹みたいなものが運ばれてきた。

「やった、これ、上海蟹でしょ?」

 小声で聞くと、「うんにゃ、上海蟹はいまは季節じゃないね、これはもっといいもの」と陳翁。ではなんというものか? 

「これは上海蟹似ね」

「ほら、やっぱり。上海蟹を煮つけたものじゃない」

「違う。上海蟹に似ている蟹、上海蟹似ある」

 よく見ると黒々と煮つけられたその蟹には十本以上の足がついている。これ……蟹じゃないじゃん。

 とにかく大陸の人間はなんでも食う。噂ではいまでも犬猫を食う地域もあるというから、油断できない。俺はこの街のシーサイドレストランはこれっきりにしておきたいと心底思った。

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第八百五十五話 恋の揺れ戻し [恋愛譚]

「ねぇ、わたしと前カノとどっちが性格いい?」

 アイスティーのグラスに差し込まれたストローから唇を離してから、メグはいきなり聞いてきた。こういう不意打ちが得意なのだが、たいていは深い意味はなく、思いつきで言っているだけだ。

「なんだよ、いきなり。そんなの比べられないよ」

 どっちが美人なのかではなく、性格を聞いてくるとことがメグらしい。メグは自他ともに認める美人だから、俺の前カノが自分よりきれいな女であるはずがないと思っているのだ。そしてそれはおおむね当たっていた。

「でも、なんかあったから別れたんでしょ?」

「いや、別に何かがあったわけでは……」

「ふぅん。ま、いっか」

 メグとつきあいはじめて半年になる。二年前にヒカリと別れてから、しばらくはもう女の子とあつきあわないと思っていたのだけれども、新しくいきつけとなったバー駱駝屋で出会ったのが一年前。しばらく様子を見ていたが、年末に駱駝屋のクリスマスパーティがあって、その盛り上がりに乗じてつい告ってしまったのだ。メグも俺のことが気になっていたようで、俺たちはいともすんなりとカップルになった。メグは超が付くほどの美人ではないのだが、どこか男が引き寄せられるものを持っていた。

 小悪魔。そう、最近流行りの言葉で言うとそんな感じ。見た目はそれほどでもないのだけれども、男の心に揺さぶりをかけるような言動があり、なんとなくそういう雰囲気が外見にも影響しているように思えた。決して派手ではないがモノトーンを基調にしたお洒落が好みのようで、そこに一点だけ黄や赤を入れるようなセンスの持ち主で、会話の中でも女性らしいやんわりした口調なのに、どこか人を試すような台詞が散りばめられたりするのだ。

「ねぇ、一年過ぎたら反省会しましょうよ」

「反省会?」

 また不可解なことを言い出した。

「なんの反省会をするの?」

「わたしたちふたりのに決まってるじゃない」

「俺たちの反省会?」

「そうよ。恋人反省会。それでまた一年つきあうかどうかをお互いに考えるの、どう?」

「なんだよそれ。なんか言いたいことがあるんだったら、いま言えよ。イマでしょ!」

「別に。いまは何もないわ」

「ならなんで?」

「そういうこともアリかなって。だって馴れ合いな恋人ってなんかやじゃない。わたしね、思うのよ。恋人にしろ夫婦にしろ、互いに少しくらい緊張感があるほうがいいって」

「緊張感って……それ、ストレスじゃね?」

「ストレスって思うのならやめたほうがいいわね」

「じゃ、やめようよ」

「いや、だからね、ストレスになるようなことじゃなくって、少しだけ、塩加減くらいの緊張感、あっていいと思うけどなー」

「塩加減ねぇ」

 空になったグラスの氷をストローで弄びながらメグの顔を見ると、可愛い顔がにまにま笑っていた。こういう突飛な発想が面白いし好ましくも思うのだけれども、ときには面倒くさく感じることだってある。俺は無意識に喫茶店のテーブルに並べられたふたつの小さな容器に指を伸ばしていた。塩が入った白い容器と胡椒が入った黒い容器。どちらが欲しいかって言われても、そのときどきで違う。塩味が足りなければ白い方、胡椒が足りなければ黒い方。そのどっちかを選べなんて言われるのはナンセンスだ。だが、恋人はスパイスとは違う。両方を上手に使い分けるなんて芸当は、俺にはできそうにない。

 別にメグを前カノと比べようなんて考えたこともないのに、メグが聞いてくるからつい比較してしまう。小悪魔なメグに比べると、ヒカルはおっとりしていてやわらかい女性だった。物足りなく思うこともあったが、おおむね安心できる、一緒にいて和める女性だったといまになって思う。

 なんで別れてしまったのかな。答えははっきりしている。何が悪かったわけでもなく、俺自身から遠ざかったのだ。彼女の影響なしに自分自身の人生を考えたいと思ったから。学校を出て間もない頃の俺はなにかしら焦っていて、愛だの恋だの、そんなことに時間を咲いている場合ではないと思っていた。まして結婚がちらほらするような関係は目障りだと考えていたのだ。二年過ぎたいまはなぜあんなに焦っていたのかなと不思議に思うくらいに。

 実はときどきはヒカルのことを思い出す。思い出す度にメグに悪いなと思いながら。だけど、喧嘩別れしたわけでもない前カノのことが気になるのは当然じゃないかと自分で言い訳する。ヒカルにいま彼氏がいて、幸せにしているのなら何もいうことはない。でももし、そうじゃないとしたら……もしいま、ヒカルがもう一度一緒にいたいなんて言ってきたらお前はどうする? 自問自答しながらさまざまな妄想が膨らみはじめる。

 世の中のプレイボーイと呼ばれる男はいったいどんな性格をしてるのだろう。俺にはとても想像つかないな。

「キミィ、いまどっか行ってたでしょ」

「へ? なにが?」

「ぼんやりして、前カノのことでも思い出してた?」

 女の洞察力は案外恐い。

「まさか。ちょっと、夕べ寝不足だったから……」

 ヘラヘラと下手な笑いでどこまで誤魔化せているのか。メグが笑いながら額のあたりに意識を集中して俺の顔を見ている。

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第八百五十四話 (童話)明日探物語 [妖精譚]

 十五歳の誕生日を迎えたヒロトは両親にあることを打ち明けた。

「ぼく、旅に出たい。もっと広い世界を見て、大切ななにかを探したいんだ」

「大切な何かってなんなの?」

 母親に訊ねられてもヒロトは答えることができない。なぜならヒロト自身にもわからないから。職人である父の仕事を継ぐことも考えたのだが、自分にはそれ以外に何かすべき事があるような気がしていた。だからその何かを探したかったのだ。

 戸惑う両親を無理やり説得して、身の回りのものを小さな鞄に詰め込んで家を出たヒロトは、とにかく太陽が出る方向を目指した。しかし太陽はすぐに頭の上に移動し、やがて背中の方向に降りていく。つまり太陽を追い抜かす形になってしまうのだが、それでも構わずにヒロトは太陽が最初に顔を出した方向へと歩き続けた。二回ほど太陽を追い抜かした頃、山の麓で白い長い髭を伸ばした爺さんと出会った。

「おい、お主。どこに行くのかな}

「はい、太陽が上るところへ」

「ほぅ。そうか。で、何しにそこに行くのかな?」

「わかりません。何かを見つけに行くのです」

「そうか何かを見つけになぁ。なるほどわかった。では、これをお持ちなさい」

 爺さんがくれたのは地図でもガイドブックでもない、一冊の本だった。ありがとうございますと受け取ったものの、読めない文字がいっぱいあるヒロトはもらった本を鞄に入れて先を急いだ。

 最初についたのは学びの村だった。若く明るい村人たちは全員が勉強好きで、しばらくここに滞在しなさいと薦められるままに宿をとったヒロトは、村人に混ざって暮らすうちにさまざまなことを学び、何人もの友人も出来た。火の使い方や水を得る方法、土の捏ね方、木の育て方、金の探し方など、多くの知恵と知識を身につけたヒロトはいつの間にか背も伸び、立派な青年になっていた。いつまでもここにいる訳にはいかない、そう感じたヒロトは、また旅支度をして東へと向かった。

 険しい岩山を越えていくと山頂あたりで出会ったのは頭の禿げた三つ目の恐ろしげな姿をした大男だった。だが大男は意外と優しく接してきて、持ち金が乏しくなってきたヒロトに三つの仕事をくるのだった。

 最初の仕事は、山の麓の村人と共に畑を耕す仕事だった。ヒロトは村人と共に熱心に耕し、半年もすると畑にはさまざまな作物が実った。村人と一緒になって豊作を喜び、宴を祝った。祝っているうちに村の娘ヒメコと恋に落ちた。宴のあと、ふたりで星を眺め、納屋に忍び込んで一夜をともにするのだった。

 二つ目の仕事は、収穫した作物を森の奥に住む魔女に売り込むことだった。ヒロトは畑で採れたイモや玉ねぎやナス、果実をトラックに積み込んで森の奥に向かった。魔女が住む屋敷までの道にはいくつものトラップが仕掛けられていた。

 底なし沼をうまく回避し、燃え盛る草原の炎を沼の水で消し止め、襲い来る狼の群れを器用に飼い慣らして先へと進むと、いよいよ魔女の屋敷。

「ふぉふぉふぉ。よくぞここまで来れたものよ。で、何を売りに来た? そうかそうか、全部買ってやろう。ただし、条件がひとつ」

 魔女の条件は三つ目の仕事と合致した。谷間のドラゴンを生け捕りにしろというのだ。大男の依頼は退治せよというものだったが、どちらにせよ相手はドラゴンだった。ヒロトはさっそく谷間に向かった。ドラゴンはすぐに見つかった。谷間でのんびりと日向ぼっこをしていたのだ。

「おい、ドラゴン。お前を退治する」

「なんだって? なぜわたしを退治するのだ? わたしがなにをしたというのだ?」

 言われて確かにその通ろだと思った。そこで大男ではなく魔女の依頼に応えることにした。ドラゴンにその話をすると、驚いたことにドラゴンは素直に受け止めた。

「まぁ、そろそろ帰ってやるか。わたしはもともと魔女の屋敷に住んでいたんだからな。広くて温かいこの谷に憧れて屋敷を飛び出したのだが、そろそろここも飽きてきた。もう、屋敷に戻ってもいい頃だな」

 こうしてヒロトはドラゴンを魔女の元に連れて行き、作物の代金を受け取って村に戻ってみると、すでに恋人になっていたヒメコが何者かにさらわれたという。目撃者を探してみると村はずれに住む盲目の婆さんが見たという。

「大きな三つ目の男が連れ去っただ!」

 なるほど、三つ目の大男か。それなら話は早い。ヒロトはさっそく大男を訪ねた。

「おい、大男! 仕事は三つともこなしたぞ!」

「本当か。よくやった。だが、知っているぞ……ドラゴンは退治しなかっただろう」

「退治はしなかったが、捕まえて魔女に渡したぞ」

「わしの依頼とは違うな。だがまぁいい。そのかわり、この娘はわしがいただく」

「なんだって! ぼくはヒメコを取り戻しに来たんだ!」

 するとヒメコが姿を現して言った。

「あら、残念。わたしはここで暮らすの。貧乏な村よりも、裕福で優しい三つ目おじさんと一緒にいるほうがいいわ」

 ヒロトはヒメコを説得し、大男をなじったが、結果は変わらなかった。がっくりと肩を落とし、村に戻るしかなかった。

 気がつけばヒロトは中年と呼ばれる年齢にさしかかろうとしていた。ヒメコとのこともあって、すっかり生きる気力を失っていた。そうだ、ぼくは何かを探すために旅に出たのだった。こんなところでとどまっていられない。ようやくかつての気持ちを思い出したヒロトは再び支度をして旅に出た。

 今度の旅は冒険もトラップもなく、大男も魔女もドラゴンも現れず、ただひたすらに歩き続けるだけの旅となった。東へ東へひたすら歩く。無精ひげを生やした中年男を見て道を明ける人、「浮浪者!」と言って石を投げる子供もいたが、一方では親切に話しかけてくれる婦人や、家に招き入れて宿を貸してくれる年寄りもいた。

 それから何年も何年も歩き続けて、東の果てまでたどり着いたと思ったとき、ある一軒の家の前に立っていた。入口のところで猫が手招きするので中に入ってみると、老婆がベッドの上で横になっていた。

「おお、戻ってきたのかい。何かみつかったのかい?」

 驚いたことにそれは年老いた母親だった。ヒロトは家に帰っていたのだ。

「元気かい? 顔を見せておくれ」

「父さんは?」

 聞けば、ヒロトが家を出てしばらくしてから、病気になって死んでしまったという。そのために家業も廃れ、母は一人で苦労して生活していたが、ついに病に冒されて迎えが来るのを待っているところだという。

「そんな。ぼくが面倒をみるから、病気を直して長生きしよう!」

「ありがとう。お前が戻ってくれたことだけでなにより嬉しい」

 母はたいそう喜んだが、三日後に息を引き取ってしまった。

 ヒロトは何かを見つけるために旅に出たのだが、遂に何も見つけることができないまま戻ってしまった。しかも戻ってみると父親はなく、母親さえも失ってしまった。

 ヒロトが長い旅の末に見つけたのは、喪失だった。限りなく深い、しかし限りなく稀有な両親の愛情。もはやどこを探しても見つけようのない愛の喪失を知ったのだった。

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第八百五十三話 嫉妬 [恋愛譚]

 見慣れたはずのデスクの向こう側がいやに遠いような気がした。デスクの向こうで門田の背中が見える。その背中はなぜだか俺を拒否しているような気持ちにさせた。職場の先輩である門田はデスクの後ろにあるファイルロッカーで何か探し物をしていたのだが、目的のファイルを手にとってデスクに戻った。しばらく黙っていたのだが、おおむね仕事が終わりかけた頃に、ぼそりと話しかけてきた。

「なぁ、ミッキー。お前取引先の女性とあまり親しくなりすぎない方がいいぞ」

 ミッキーというのは俺のことだ。三木という俺の苗字をみんなそんな風に呼ぶのだ。営業主任である門田が取引先との人間関係に注意を払うことはよくわかる。だが、若い者同士で恋愛をするのは止せというのはなんだか理不尽な気がした。それに門田が誰のことを言ってるのかも俺にはよくわかっていた。

 俺がいま付き合いっはじめている静子とは確かに業務の打合せで出会った。一年前、俺が担当になる前は、門田が担当だった。静子の職場に出向くようになって最初の半年くらいは、ときどきオフィスの中で見かける彼女を遠目に見て好ましく思っていた。やがて静子が受け持つ商品を俺が扱うようになって、必然、静子と話をするようになった。聞けば門田とは結構親しくしていたようで、なんどか食事をしたこともあるそうだ。そのうち俺と静子の距離は縮まり、仕事以外でも食事に行ったり、お酒を飲んだりするような仲になった。その頃の俺は以前付き合っていた彼女と別れて二年も経っており、もう二度と恋人なんていらないと思っていたのだが、静子には次第に惹かれるようになっていった。これほどの美人に彼氏がいないはずはないと思っていたのだが、どうも男の気配がしないのだ。静子は他の取引業者とも気さくによく喋っているようだったが、いずれも仕事先として対応しているだけで、特別な関係にある男は一人もいないに違いないと考えた。

 それでも俺は何度めかのデートのときに恐る恐る訊いた。静子さん、彼氏とかいるんでしょ? うふふ。どうしてそんなこと訊くの? だって美人だから。美人だって? わたしが? もしわたしが美人だとしても、だからといって誰かとお付き合いしてるとは限らないわ。あれ? じゃぁ、いまはフリーなの? あら、そんなにさみしそうに見える? ぬらぬらとはぐらかされそうになりながらも、ようやく彼氏がいないことを白状させた。ついでに俺もフリーであることを告げ、つまりこういう確認こそが互いにお付き合いの開始を意識させる合図になるのだ。

 二度ほど食事に誘い、その後で門田もよく姿を現す俺たちがいきつけにしている店に同伴でやって来るのだから、何かしら俺たちがつるんでいることは見え見えだったと思うが、別に他の連中に知られてまずいという理由が俺にはなかった。だが、門田は仕事の取引先同士が恋仲になどなって欲しくないと言うのだ。門田は俺の先輩だ。だから仕事の上では彼の言うことがルールだ。そう考えた俺は素直にわかった、と答えた。俺は先輩である門田にとっての友人でもあり続けたかったから。

 それからひと月ほどの間に、俺と静子はついに正式に付き合いはじめる形に収まったのだが、ふたりで門田が来る店に行くことはなかった。俺は門田の言いつけを守りたかったからだし、なぜだか静子も俺たちのいきつけであり門田が来そうな店に行こうとは言い出さなかったのだ。

「静子、実はね、門田さんに妙な釘を刺されたことがあるんだよ」

 あるとき俺はあの日のことを思い出して何気なく静子に話した。

アイドルグループのルールじゃあるまいし、業務恋愛禁止だなんて、ちょっと変だよね」

 俺がそう言うと、それまで屈託なく笑っていた静子の顔がにわかに翳った。俺はすぐには何が起きているのかわからなかったが、静子が泣き出すのを見て、ただ事ではないなと思った。

「どうしたんだ? なにか悪いことを言ったかな?」そう言うと、しばらく間をおいてから答えがあった。

「言えなかったの、どうしても。ミッキーに嫌われたくなかったから」

「え? なんで俺が」

「あのね、わたしカドさんと付き会ってたことがあるの」

 うかつだった。そんなこと、考えてみればすぐわかることなのに。俺と静子と門田さんは、トライアングルだったのだ。

「ううん。ミッキーと食事に行くようになった時には、もう離れてたの。でもね、彼の気持ちはそうではなかったみたいで……だからミッキーに言えなかった。黙ってたこと……許す?」

 許すもなにも、過去の話だ。そこは俺には関係ない。俺と静子の関係が、いまうまくいってるならそれでいいと思う。それより、これから門田とどんな顔をして会えばいいんだろう。何かと親切で俺の悩みにも親身だった年上の門田とは明日も会社で顔を合わす。あんなに仲良くしていた先輩なのに、いまはその顔が、どうしても思い出せなかった。

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第八百五十二話 超常現象 [文学譚]


「おかしいな」

 唯志はキッチンにひとり立ちすくんで頭を捻った。夕べ人からもらった饅頭を食べたのだが、ひとつ残っていたはずだ。今朝、確かにテーブルの上にあるのを見てから出かけたのだが、夕方帰ってみるとなくなっているのだ。前にも同じようなことがあった。その時は林檎だったのだが、ほかの果物を一緒に籠に入れて置いてあったのに、林檎だけがなくなっていたのだ。ほんとうに不思議だ。足元で黒猫のみゃぁが「ミャァ」と鳴いた。まさかお前は饅頭なんか食べないよなぁ。みゃぁに向かって独り言ともつかない言葉をかける。

 不思議なことは食べ物以外にもあった。唯志は一人暮らしなので洗濯も自分でするしかないのだが、干してあった洗濯物を取り入れたままソファの上に重ねてあったのだが、夜になって畳んでいると、靴下が片方消えているのだ。あれ? 取り込み忘れたかなと思ってベランダの物干しを見るが、何も残っていない。仕事用のナイロン靴下であろうが、木綿の靴下であろうが、片方だけ残っても使いようがないのだ。だが、そのうちどこからか出てくるかも知らないと思って片方だけになった靴下は箪笥の片隅に置いてあるのだが、そういうものが何組か眠っている。家の中でモノがなくなってしまうというのは、不思議でもあるが、なんだか気持ち悪いのである。

 気持ち悪いといえば、以前もっとおかしなことがあった。唯志がひとりでテレビを見ていたときのことだ。ソファに寝転んで正面に据えてある大型液晶テレビを漫然と見ていたら、急に音量が下がった。まるで誰かがリモコンをいじったようだった。なんだこれは。俺は何もしていないぞと思いながら、床に転がっていたリモコンを取り上げて音量をあげる。すると一旦通常まで上がった音量を示すデジタル表示は、唯志がリモコンから指を外したとたん、すーっと下がってしまうのだ。おかしいなと思ってまた音量を上げる。するとまた何もしていないのに下がっていく。同じことを何回か繰り返してから、ようやくこの現象は消えた。まさか誰かが窓外でいたずらをしているのかな? そんな気がしたが、唯志の部屋は十階にある。テレビに向かっている壁面には窓があり、その窓の外は空中だ。ベランダ側からリモコン操作ができそうではあったが、そこに誰かがおたとは思えない。もしかしたら窓外の空中を隔てたビルから誰かがリモコンをかざしているのではと思ったが、窓から見えるビルは五十メートルは離れているし、眼を凝らしてみたが、誰かが窓際にいる様子もなかった。ポルターガイスト? 一瞬そんな言葉が頭をよぎったが、気持ち悪っと思ったきり、忘れてしまった。

 そのほかにも社章が行方不明になったり、昨年買ったはずのシャツやマフラーや、靴下など、唯志の部屋ではいろいろなものが見えなくなることが度々あるのだ。

「超常現象」

 もともと不思議なことが好きな唯志は、近ごろ家の中で起きていることがそれではないかと思いはじめた。超常現象とは、自然科学では説明できない現象である。家の中で起きていることを、科学で説明できるのだろうか? 唯志は考えてみる。衣類がなくなるのは、もしかしたらどこかに仕舞い忘れているだけかもしれない。そのうちひょんなところから出てくるかも。一人暮らしの唯志は片付け下手で、家の中は結構乱れている。だが、取り入れたばかりの靴下は? テーブルの上の饅頭や林檎は? まさかそれをどこかに仕舞い忘れたとるると、これは大変だ。若年性アルツハイマーになってしまったのかもしれない。まさか。唯志はあははと一人で笑う。俺の頭がおかしくなっているなんて、そんなはずはない。

「なぁ、太郎。俺はアルツなんかじゃないよなぁ」

 室内で買っている愛犬に話しかける。太郎は一人暮らしが寂しいと思いはじめたときから飼いはじめた中型犬だ。猫のみゃぁはその後飼うようになった。身軽な猫は平気でテーブルの上や箪笥の上にジャンプするが、犬には無理だ。猫の真似をしてテーブルに上がりたがって、椅子を介して上がったことはあるが、いまはそれができないように、椅子はテーブルの下にきっちり押し込んでいる。だから太郎がテーブルの上に上がって饅頭を食べたなんてことはあり得ない。みゃぁがテーブルの上から話しかけてくる。「みゃぁ」少し頭を撫でてやると喜んで頭を押し付けてくる。しばらくそうしてやると満足して離れていく。みゃぁはテーブルの反対側にいって、そこに置いてあったペンで遊びはじめた。  

 前足でペンを触る。ペンが転がる。面白いからまたペンをつつく。ペンが転がる。そうしてペンは床の上に落ちた。すかさず太郎が駆け寄って落ちたペンを口で拾って遊びはじめる。犬と猫との共同作業だ。

 あ。もしかして……こうやってみゃぁが饅頭や林檎を転がして……? 科学的に説明するならそういうことだな。取り入れた靴下も、太郎が咥えて食べてしまったのかも。こいつはこれまでもいろんなものを食っちまったからなぁ。しかし、あのテレビの音量は……。こればかりは、いくらみゃぁと太郎が共同戦線を張っても無理だな。第一あの時にはまだみゃぁはいなかったし。

 世の中には科学で説明できることと、できないことがある。なにもかも科学で説明できるならスッキリするし安心もできるけれど、それはそれでつまらない。なにかひとつくらいわけのわからない話があったほうがいいじゃないか。唯志は一人でそう考えてから、もうそれ以上追求するのをやめてしまった。

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第八百五十一話 寂田新地レポート [文学譚]

 大通りから狭い通りにほんの少し入っただけで、町の空気がずいぶん違うように感じられる。古い木造家屋が建ち並び、それ自体は古き懐かしき昭和の時代にタイムスリップしたかのような趣なのだけれども、この町にはそれ以上になにか一種独特の空気がある。昼間から玄関を開け放した家が何戸もあって、玄関口には受付カウンターのような棚が設えられている。赤い暖簾がいまはまだ内側に仕込まれていて、上がり框には赤い絨毯様の敷物が敷かれている。まだ無人の家もあるが、入口のところに厚化粧のおばばが座っていたり、早くも若い娘がいたりする家もある。ここ黴田という町は、昔ながらの営みを続けている町なのだ。

 わたしは、この町のある店に住み込みで働いている女性とひょうんなことから知り合って、彼女の仕事についてあれこれと教えてもらうことになった。彼女は自分の仕事を卑下するどころか誇りを持っていて、わたしのどんな質問にもしたり顔で答えた。

 たいへんかって? そりゃぁたいへんに決まってるじゃない。客商売っていうのはね、ほんっとうぅにいろんな客がいるんだから。いい客も多いけど、とんでもないのも来るわ。人を人と思ってないんじゃないかみたいなね。それでもわたしらは平気な顔して相手をするんだから、それってたいへんな労働よ。

 だって、やっぱすべてはお金。お金が稼げるから続けていけるってわけ。わたしみたいな体だけが資本っていう女はね、こういうのでなけりゃ、稼げないって。うん、わたしだってOL経験はあるよ。でもあんなのいくら働いてもお金貯まんないじゃん。わたしはね、この仕事である程度まで稼いだら、きっぱり辞めて店を出すの。品のいい飲み屋をね。それが夢。夢があるからさ、お金を儲けるために頑張るんじゃない。

 ああー、あの人の話ね。政治のことはよくわかんないけど、間違ってないんじゃない? 市長の言ってること。確かにね、男って性のはけ口が必要な動物なのよ。特に戦争に行くような荒くれ者なんてさ、セックスのために生きている男たちでしょ? 求める者がいて、提供するものがいて、だから慰安婦なんて制度が生まれたんじゃないの? 昔のことはよく知らないけど。わたしだって、その……なんていったかしら、その……すそう、需要と供給? それがあるからこうして儲けさせていただいてるんだもの。これ、だれかから強制されてるわけじゃないしさ。法律? ばっかねぇ。そんなものあってないようなものよ。セックス商売なんていっくらでもあるんだから。そうそう、そういえばあの市長はn弁護士だったころ、わたしらの味方だったんよ。この町を法律で守ってくれてた。そういう人情のあるひとなのよ、あの方は。あの慰安婦の発言も、とても真っ直ぐな気持ちで言ってるはずよ。

 そう? ありがと。でもキレイだとかもったいないだとか言って褒めてるつもりだろうけど、そんなの一銭にもならないもん。そんなのでサービスしないわよ。いくらするのかって? ふふ、知りたい? 来るつもり? わたしんところはこれくらい。安いでしょ? え? もっと安い店もあるのかって? あるよ。通り向こうにね、化物通りっていうのがあるの。そこにある店ならぐっと安いよ。そのかわりね、女の子っていうか、店の女も安いわよ……わかるでしょ、化物通りなんだからね。

 ほんとう? 来る? じゃ、楽しみに待ってるわ。あなただったら少しだけサービスしてあげる。ほら、これ。わたしの店のカード。ここの入口でわたしの名前を言うのよ。わかった? 間違っても化物通りには行かないでね。いろいろあるみたいだから、あそこは。

 比美子といったその娘は顔の血管が見えそうなほど色白で、夜はその肌に化粧を盛るのだと言った。茶髪に青すぎるアイラインが下卑た感じを醸していたが、話してみると存外にどこにでもいそうな普通の女子だった。だが話す内容はあっけらかんとして日常の仕事を、八百屋や魚屋の仕事のようになんでもないものとして話す。ひとしきり話を聞いた後で喫茶店を出て行く彼女は、田舎から出てきたばかりの女子高生と言われてもわからないほど普通な感じだった。後ろ姿を見送りながら、必ず行くよと、わたしは無言のサインを送った。

 あれからもう半年ほど過ぎた。あの娘は覚えているだろうか。わたしは比美子とメモを書いてしまっておいたカードをポケットに入れてこの町にやってきた。はじめて踏み入れる町。果たしてあの娘はいるのだろうか。店ではどんな感じなのだろう。たどり着いた店には臙脂色の暖簾がかかり、店の中はピンク色の光で溢れていた。その毳毳しい空気に一瞬たじろいだが、風俗ごとよりも、ただもう一度彼女にあってみたいという思いだけでわたしは一歩踏み出した。比美子がいるはずの店の敷居の向こうへと。

                                      了


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第八百五十話 マイホーム [文学譚]

 はじめて目が開いたときには、柔らかい土の上にいた。適度に水分を含んだ土には枯れ草が混ざっていて、決して温かいとは言えないまでも、それなりに体温を保持してくれていた。兄弟とふたりでこの土の上でじっと待っていると、ときどきお父さんお母さんが見に来ていたんだと思う。

 次に気がついたときには、最初に目覚めたときとはずいぶんと様子が違っていた。土ではなくなにかやわらかいふんわりしたものの上に座っていた。周りは冷たいコンクリートだったはずなのに、いまはほんのりと温かい壁に囲まれているが前よりもずっと狭い世界の中にいた。世界が明るくなってまた暗くなってもお父さんやお母さんはやって来なかった。近くで声がするんだけれども、僕らのところにやって来ないので、もう会えないのかなと少し不安になったけれど、次に明るくなった時に、ようやく口に虫を咥えて来てくれた。お父さんとお母さんが虫を咥えて来てくれなかったら、僕らはふたりとも死んでしまうことだろう。お父さんとお母さんは暗くなる前と明るくなったときにそうやって虫を運んできてくれるのだ。

 最初僕らはぼんやりしていて世界が明るくなったり暗くなったりするのを眺めているだけだったけれども、何回もそういうのを眺めているうちにからだの中に力が湧いてきて、箱の中を少しづつ動き回るようになった。兄弟の姿を見ていると、ちょっと前まではふわふわした毛に覆われていたはずなのに、いまはもっとツヤのあるしっかりした羽根に変わっていて、からだ全体も二倍くらいに大きくなっている。自分の姿はわからないけれども、僕もきっと同じような姿になっているのだろうなと思う。

 くるるるる。くるるるる。

 兄弟がお父さんの真似をして音を出しはじめたので、僕も真似をしてみる。

 くっくるるるる。くっくるるるる。

 なんかできた。お父さんやお母さんみたいな音が出せる。この頃はお父さんとお母さんがやって来ると、しきりに箱から追い出そうとつつく。なんだ、いやだよう、と思うきもちとはうらはらに、体は自然と箱から出て行こうとする。

 くっくるぅ、くっくるぅ。

 お父さんとお母さんが飛び立っていた後ろ姿を箱の前で見送りながら、僕らはしばらくうろうろしていた。僕らもああやってバタバタできるのかなぁ。

 ばたばたばた。

 羽根を動かしてみるが、箱の中はどうも狭くて動きにくい。だから箱の外に出て同じことをしてみるのだけれども、そこだって狭くて動きにくい。僕らはどこでバタバタすればいいの? 箱の外はコンクリートになっていて、その端っこから顔を出して覗いてみると、下が見えないほど深く大きな溝が広がっている。ここにはまってしまったらもう、戻ってこれないな。直感的にそう思う。この溝の淵にはコンクリートの通路があるので、大きな溝に落ちさえしなければばたばたすることができそうなんだけれども。

 もう何十回明るくなって暗くなったのかわからないけれども、世界はずいぶん暖かくなった。あの土の上でふるえていたのが夢のよう。どこでばたばたするのかなんて不安に思っていたことも嘘みたいで、僕は自然に羽根をバタバタさせて、そうするとなんだか体が軽くなって浮き上がろうとする。お父さんに追い立てられて、溝のところから通路に飛び出てみると、案外簡単にできた。そこからあとは……。

 気がつくと僕も兄弟も、お父さんやお母さんと同じように空に浮かんでいた。浮かんでいたというか、羽ばたいていた。風が気持ちいい。適度な風が身体を浮かせているようだ。僕らがいた場所が遠ざかっていく。もうあそこには帰らないのだろうか。僕の家。家という言葉が自然に浮かんだ。いや、きっとまたあそこに戻るだろう。今度は僕がお父さんになるときに。遠ざかってみると、羽のずーっと下に僕らの家が見えた。あそこにいたんだ。狭く小さな箱。それは空から見てもやっぱり四角くて小さいコンクリートでできている。不思議だな。あの狭く小さなコンクリートの箱に、僕らは住んでいたんだな。そう思いながら、僕はお父さんとお母さんの後を追いかけた。

                                       了


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第八百四十九話 クロ [文学譚]

 夕方になると昼間あたたまったアスファルトも温度を下げてひんやり冷たくなってくる。お父さんは唯一の家財であるリヤカーの横にダンボールを敷き詰めて、その上に横たわり空き缶やダンボール集めで疲れたからだを休める。クロはお父さんのからだに脇腹を充てがうようにして眼を瞑る。

 春から夏にかけて、クロたちはこの橋の上を根城としていて、それはそれなりに快適なのだが、冬が近づくと行き場を失ってしまう。公園や空家の脇などを探し回って、結局同じこの場所に戻ってくることになるのだ。市の方針が新しくなって、市中の美観を保つために次々とホームレスが仮住まいから追い立てられ、いまや公園でも川沿いの空き地でも、青いテントを見ることはなくなった。家無したちは皆それぞれに施設や木賃宿を紹介されてそちらに移っていった。だが、そういう場所へは犬を連れて行くことができない。人は人の場所へ、犬は保健所へと引き取られて行くことになるのだ。

 家族同然に暮らしてきたクロを手放すことなど、お父さんは思いもよらない。クロを手放すくらいなら、このままここで暮らしていくほうがいい。役所など、なんぼのもんじゃい。クロの頭を撫でて話しかけながら眠りにつくのだった。深夜の街はジャングルよりもはるかに静かだ。少し離れたところにある幹線道路は深夜であっても走る車はいるが、その数は昼間の百分の一くらいになる。族の車でない限りは、静かに通り過ぎていくだけだ。橋の周りには人影ひとつなく、ときどき川面に跳ね上がる鮒かなにかの水音がするくらいで、虫の声さえ聞こえない。ここには街灯もついていないので、夜中に眼を開いても闇が瞳に流れ込んでくるだけで人間の目には何も見えない。お父さんは腹のあたりから聞こえるクロの寝息に安堵感を覚えてまた深い眠りにつくのだ。

 明け方になると、まだ暗いうちから誰かが動きはじめる。新聞配達や早朝出勤の男、夜勤帰りの勤め人などが、ぱらぱらと動き出す。お父さんも同じくらいには目を覚まして身支度を終えている。前夜に調達しておいたコンビニの廃棄弁当をふたりで分けて食べ、水を飲む。ホームレス仲間が多かったときには互いに助け合いながら飯の調達ができていたのだが、いまはひとりで探し当てねばならない。大抵は空き缶やダンボールを集めて作ったなけなしの日銭を持って、馴染みのコンビニやスーパーでゴミ扱いになった弁当などを分けてもらうのだ。ホームレスの中には犬や猫を連れている仲間は少なくないのだが、みんなそれぞれに犬猫の飯には苦労している。人間だけでも食いはぐれるのに、ペットの飯まで手が回らない。しかし家族同然の者だからそういうわけにはいかない。結局同じ飯を分けあって食べることになるのだ。

「クロちゃん、ご飯だよ」

 ふいに女の声がした。ああ、おばちゃんだ。近所のどこか裕福なおうちの奥さんなのだろうが、数ヶ月前にクロの存在を見つけて、ときどきご飯を持ってきてくれるのだ。お父さんはあまりにも無口なので、ほとんど何も話さないが、おばちゃんがいうには、もう長いこと公園ののら猫を世話しているのだそうだ。

おじさん、クロちゃんは人間と同じもの食べさせちゃだめよ。中には犬にはいけないものも含まれているんだから」

「そんなこと言われても……」

 そんな会話が交わされてから、おばちゃんはクロのご飯を持ってくるようになった。ときには人間用のおにぎりなんかも一緒に。ありがたい。この上なくありがたいことだ。お父さんはおばちゃんに頭を下げっぱなしだった。世間では、犬を連れているとこんな風に犬を不憫に思う人から施しがもらえる、だから犬を連れているのだという声もあるらしいが、そんな馬鹿な話はない。施しをもらうためにそれ以上に負担になる家族をひとり増やすなど本末転倒ではないか。

 ともかくおばちゃんの助けもあってひと夏を無事に過ごし、いよいよ太陽はより低い位置へと頭を下げる季節になった。路上生活者には過酷な環境がはじまる。こんな季節には、おばちゃんがついでに持ってきた古着毛布がありがたい。一枚重ねるだけで、温かさはまったく違うからだ。

 いつまでも残暑を続けて欲しかったが、瞬く間に気温は下がり、橋の上は冷たい風の通路になった。夜になるとお父さんが咳き込む。持病のようによく咳をする人だが、今回の咳込みようはかなり苦しそうだった。咳込みながらクロを抱きしめ、それはクロを愛しているからではなく、暖を取る手立てとして、咳を吐き出すときの拠り所としてなのだが、「おお、クロよ」と言いながらリヤカーの影に横たわって眼を閉じる。

 新聞配達の自転車が走る。遠くを深夜トラックが轟音を上げて走り去る。とっくに夜は明けていた。いつになくお父さんは眠ったままだ。どうしたの、お父さん。クロは口の周りを舐めてみるが、体温がない。お父さん、お父さん。いくら鼻先で押して見てもお父さんの腕は動かなかった。その日一日、眠ったままのお父さんの横で過ごしていたが、夕方になって緑色の服を着た男たちがやって来て、お父さんをどこかに連れて行ってしまった。別の服を着た男が棒を持って近づいてきたので、クロは怖くなってその場を離れた。

 どうしよう。お父さんが連れて行かれてしまった。お父さんには同じホームレスの友達がひとりいたが、いまはどこにいるのかクロにはわからない。でも探すしかないと思って、お父さんと出かけたことのある道を探し回った。一週間、二週間、三週間、ゴミ箱をあさりながらお父さんの友達を探したが、どこにも見つからなかった。

四週間目に入った深夜、ある街角で覚えのある匂いを見つけた。それは食べ物と猫の匂いが混ざったような懐かしい匂い。あ。クロの小さな脳裏に浮かんだのはおばちゃんの顔。そこは白い壁の四角い大きな建物の前。そうだ、おばちゃんの匂いだ。そう感じたとたん、クロの四肢から力が抜けてその場に座り込んでしまった。どのくらいそうしていたのだろう。夜明けの匂いがして、近くの公園でさえずる鳥の声が聞こえた。クロは眼を開く力もなく横たわって、静かに何者かが近づいて来るのを感じ取った。

「クロ、クロちゃん?」

ひと伝いには聞いていた。黒い犬を連れたホームレスのおじさんが亡くなったと。そしておじさんが連れていた黒い犬は、おじさんの友達に引き取られたと。だけど、ここにいるのは間違いなくあのクロだ。おばちゃんは力なく動かない赤ん坊ほどもある体重のクロをなんとか抱き上げてマンションの部屋に連れ帰った。クロはいったんは眼を開けて元気を取り戻したかと思われたが、疲弊しすぎたのか、既になんらかの病が進行していたのか、お父さんの後を追いかけたかったのか、五日後におばちゃんに看取られながら最後の息を吸い込んだ。 

                                了


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第八百四十八話 買い物嫌い [文学譚]

「マサコさん、今日はお買い物に行くんですよ」

 老人というにはまだ若い五十代の真子を、みんなおばあちゃんでもおばちゃんでもなくマサコさんと呼ぶ。話しかけているのは毎日真子に付き切り世話をしている歳若い葉子さんだ。葉子さんはとても優しく親切な娘で、いつからか忘れてしまったけれども、ほんとうに親身になって真子の世話をしてくれるのだ。ご飯の準備からトイレへの誘導まで、近ごろ富に体力の衰えを感じはじめている真子にとって、実にありがたい存在なのだ。

 微にいり細にいりという言葉がそおまま当てはまる葉子なのだけれども、ときどきうざく思えることがある。たとえばそれがいまだ。散歩に連れ出そうとしたり、買い物に誘ってきたり、何かと外に連れ出そうとするのだ。葉子に言わせると、家の中にこもってばかりだと身体に悪い、たまには外に出かけて陽の光にあたったり、なにかと刺激のある街に出てみたりした方がいいというのだが、真子は家の中が好きなのだ。若い頃からあまり出歩くのは好きではなかった。近所を散歩するくらいならまだいい。遠くまで足を運ぶのが嫌だ。昔は買い物は好きだったけれども、いまは何も欲しいものなどないし、とても買い物をする気分にはなれない。何もかもが面倒くさいのだ。歩くのも、電車に乗るのも、買い物のためにうろうろするのも。それなのに、月に一度くらいは買い物に行こうと葉子が誘ってくる。真子が買うものなんかないと渋ると、じゃぁわたしに付き合ってというのだ。今回も一週間ほど前から、お願いするから付き合ってと言っていたのだ。

「わかったわかった」

 真子はそう言ってようやく重い腰を持ち上げた。お化粧なんて最近はほとんどしない。面倒くさいから。でも葉子に言われるままに日焼け止めクリームを顔に塗って、眉毛と唇だけは軽く描いて出かけることにした。

 都心の繁華街は人でいっぱいだった。何もより好んでこんな人の多い日曜日に買い物になど行かなくてもいいのにと思うが、仕事を持っている葉子さんは日曜日しか自由な時間がないのだ。真子の人ごみ嫌いを知っているから、できる限り裏通りを歩いたのに、それでも要所要所では混雑に出くわす。ようやく目当ての店に入ったふたりは、葉子のペースで色とりどりに陳列されている洋服を見て回った。この店はウニクロと言って若い世帯が顧客の中心だが、流行服が安く手に入るので、老若男女が利用しているそうだ。

 真子は若い頃から衣装持ちで、欲しい服はたいてい既に持っているから、いまさら欲しい服などないのだが、ずらり並んだカラーバリエーションや、気持ちの良さそうな素材感を目にすると、つい手が伸びて触れてみたくなる。葉子は目当てのパンツやシャツがあるようで、次々と手にとって身体に充ててみたり、その姿を鏡に移してみたりして服選びをしている。「これ、似合う?」ときどき真子に尋ねたりもする。

 嬉々として品物を選んでいる葉子を見ていると、まったくその気がなかった真子もなんとなく葉子と同じものの色違いを自分にも充ててみるのだった。

 一時間も店内をうろうろしていると、いつの間にか買い物カゴの中には何点もの品物が放り込まれていて、いくら安いといっても結構な金額になりそうな気配。「もう、ぜんぶ見た?」という葉子の言葉をきっかけに、ふたりしてレジに並ぶ。てきぱきと仕事をこなす店員は真子のカゴから商品を紙袋に移し、購入金額を告げた。

「一万五千円になります」

 お金はある。だって普段何も使うことがないのだもの。蓄えはそれなりにあるし、失業保険というものがいまのところは毎月入ってくるから。しかし、もともと買い物意欲がなかったのに、こうして店に来てみるとなんとなく手が伸びて欲しくなってしまうのが不思議だ。お金を払うとなんだか満たされた気持ちにもなった。

「わぁ、マサコさん、いっぱい買ったね。やっぱり買い物すると楽しいでしょ?」

「うーん、そうねえ。でもまたいらないものばかり買ってしまったような」

「大丈夫よ、ここの品物は普段着るものばかりだから。買っててよかったと思うわよ」

 真子の頭の中では、新しくこんなに買ったものをどこに仕舞えばいいのかなということが心配になりはじめていた。

「また、来月あたりにもお買い物に来ましょうね」

 葉子は屈託なく笑いながらそう言うのだが、真子はもう当分買い物はしなくていいと思っている。人は多いし、疲れるし、お金は使うし、買い物なんて嫌い。真子はそう思いながら手にぶら下げた大きな紙袋の中を覗き込んでいる自分がちょっとウキウキしていることにも気がついていた。

                                   了


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