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第九百九十八話 最後のその日に [文学譚]

「母さん帰る前になにか美味しいものでも食わしてやって」

 そう言って夫は私に一万円を渡して出かけていった。三日前に突然やって来た義母にもっと泊まっていけばいいのにと言ったのだが、息子の元気そうな顔を見て安心したからと日曜日の朝から帰る支度をはじめたのだ。遠い田舎から訪ねてきた母親が帰ってしまう日くらい、最後まで一緒にいてあげればいいのに、前から約束していたゴルフをキャンセルできないと言って夫は私に母親を預けた。

「いいのよ、気にしないで、忙しいんだから。そのうちまた来るわ」

 義母は息子よりも私と過ごす方が楽しいように振舞ったが、ほんとうはそんなことはなかったはずだ。半生をかけて育てたのにたったの一日を母親のために費やせない息子を、母親は決して悪くは思わないのだ。

 夫がいなくなった家で午前中を義母とゆっくり過ごし、このところ人気の朝ドラの話や、義母がファンだという韓流男優の話でもりあがった。お昼前になって、駅の近くでなにか美味しいものを食べましょうと言って家を出た。午後からの新幹線にはたっぷり間に合う時間だ。お蕎麦が食べたいという義母のリクエストで出雲庵という店を思い出し、そこに行くことにした。

 お蕎麦はね、お父さんが好きだったからよく食べに行ったわという義母は天ざる蕎麦を注文し、私も同じものを頼んだ。義父は五年前に脳溢血で倒れて亡くなったのだが、その直前に食べたのも店屋物の蕎麦だったそうだ。

「ねぇ、ビールでも飲まない?」

 さほどお酒を飲まない義母がそう言ったのは私への気遣いだったのだと思う。私は小瓶を注文して二人で一杯ずつビールを飲んだ。

 ああー美味しい! 一口飲んで義母が言った。秋になってもまだ夏日が続いており、少し歩いた後の一口は確かに美味しかった。グラスまで凍らせて出してくれる店のサービスもビールの味わいを引き立たせていた。出雲庵の蕎麦は十割蕎麦が基本で黒っぽくて細い手打麺が私の好みなのだが、義母も気に入ったようで美味しそうに食べた。天婦羅も噛むとさくさくと音が出る衣が絶妙でこれならいい値段を支払っても文句はないという逸品だった。

 休日の昼間飲むビールは少し贅沢な気分になれるし酔いも早い気がする。一杯だけなのに、いい気分で店を出た。義母も同様だったようで、顔じゅうほころばせて通りに出たが、真上からの陽光に眉をしかめて掌を額にかざした。

 地下鉄の階段を上る手前で一瞬ためらいを見せた義母はまだ少しアルコールが残っているからだろう息が切れたらしく、私は手を握ってゆっくりとエスコートした。義母の掌は思いがけなく小さくあたたかかった。結局そのまま握った手を左手に持ち替え、右手を義母の背に当てる形で新幹線の乗り口まで連れて行った。

「ほんとうにありがとう、お世話になったわね。あの子は気が効かないかもしれないけれど、優しいところもあるからね、これからもよろしくお願いしますね」

 深々と下げた頭を戻した義母はもう一度大きく笑いながら小さく手を振った。義母のあたたかい手に私の掌は冷たくなかったかしらとそのとき気がついた。そんなことよりも義母は息子の手を握り背中を抱きしめてもらいたかったに違いない、そんな気がした。

                                                     了


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