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第七百六十五話 ネグレクト・ホテル [文学譚]

 腹が減った。幸一の身体の中のどこかがそう思った。もう長いこと何も口に入れてないような気がする。だが、最後に口に入れたのは何だったのか、そしてそれがいつのことだったのかさえ、ぼんやりとしてわからなくなっている。そんなことを考える力さえ残されていないのだ。ただただ、何かを食べなければどうにかなってしまうのではないかという恐怖感だけが身体の芯を疼かせる。
 腹が減った。そう思ったのは、身体の中のどこかであって、幸一の頭の中ではもうそんなことさえどうでもよくなっている。空腹感というものは、ピークを過ぎてしまうと麻痺してしまうものらしい。別にこのまま床の上に横たわっているだけでいいや。そのうちママが帰ってきてなんとかするだろう。麻痺した頭の中ではそう思っている。実際、ほとんど体力が残っていない幸一には指先ひとつ動かすことさえ大儀なのだ。もうどうとでもなれ。どうなってもいい。そんな投げやりな気持ちが幸一を支配していて、眼を開けることすら面倒くさい。しかし身体の中のどこかは、死体のように横たわり続けることを許さなかった。
 ほとんど死に近い状態の幸一の脳活動とは裏腹に、指先がぴくりと動く。その動きを腕が追いかけて、いつの間にか上向けで横たわっていた身体が反転する。そのまま足が痙攣するかのように腕を追いかけ、幸一の身体はじわりじわりと床の上を這いずっていく。床の上には菓子が入っていた袋やカップラーメンの殻、サンドイッチを包んでいたビニール、ジュースの空き瓶などが散乱していて、それらの下でうごめいていた一匹の黒いゴキブリが幸一の動きに驚いて飛び出していった。じわりじわりと動く肢体は食べ物のある場所を理解しているのか、真っ直ぐに冷蔵庫に向かっていく。冷蔵庫まではわずか二メートルほどに過ぎないのだが、ドアにたどり着くまでにはたっぷりと半時間ほどを費やした。
 冷蔵庫にたどり着いた幸一の身体は、そのままそこで休息を取りたいと呻いたが、手首はそれを許さなかった。無意識に腕が飛び上がり、掌で冷蔵庫の取っ手を掴む。唐突に扉が開いて冷蔵庫の内蔵が顕になる。薄暗い室内にほんのりと浮かび上がる冷蔵庫の薄ら赤い庫内灯。だが、赤い光の中には食べ物らしい物体はなにひとつない。ただの伽藍堂だ。網膜に映し出された伽藍堂の様子は瞬時に幸一の身体全体に行き渡ったはずだが、腕は、首は、しばらく固まったまま微動だにしない。そして次の瞬間、一気にその場に崩れ落ちた。
 無駄だ。無駄。この部屋にはもはや食物など何もない。この一週間で食い尽くしてしまったから。せめて水だけでも。だがもはやそれもかなわない。どういうわけか、数日前から蛇口からは何も出てこなくなっていたのだ。水道代を誰がいつ払ったのかなど、幸一の人生の中では一度も考えたこともない。ただ水が出ないという現実があるだけだ。
 ママはどこに行ってしまったのだろう。もう帰ってこないのかな。僅かに残った幸一の思考が同じことを繰り返す。ぼくはこのまま死んでしまうのかな? 幸一の頭の中に、またぼんやりとした恐怖が生まれる。まぁいいか。もはやぼくには生きていく自身がない。長く生きすぎたかもしれない。これはその報いなのかもしれない。
 冷蔵庫に頭をもたれかけ、九の字に折れた首の続きである肢体はだらしなく床の上に転がっている。もう子供じゃない大きな身体。まさかこの歳で餓死するとは。
 四十を過ぎたばかりの幸一の身体はそのまままた意識を失っていく。街で拾った女の部屋に転がり込んで女のヒモになり、そこをホテルのように住み着いて三ヶ月目の冬だった。
                                       了
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